山田耕筰(山田耕作) 「赤とんぼ」などの有名作曲家の人生

山田耕筰(山田耕作)



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山田耕筰(やまだ-こうさく)は、主に昭和の初めに活躍した日本の作曲家・指揮者です。
1886年(明治19年)に、東京都文京区本郷にて生まれました。
父・山田謙造は三河・重原藩(しげはらはん)の御殿医(医師)だった人物ですが、明治には牧師も務めており、山田耕筰が10歳の時に亡くなっています。
母は馬術指南役の娘で、父と共にキリスト教を信仰するクリスチャンでした。
父が亡くなる際に遺言を受けると養子に出されて、田村直臣の自営館(日本基督教団巣鴨教会)にて昼間は活版工場で働き、夜は併設の夜学校で13歳まで勉学に励みました。

その後、母・鎌倉に移住し、東京に戻ると新橋駅の電信ボーイの仕事をし、その後、白金の農家2階に母と身を寄せて、イチジク畑の見張りの仕事をするなど、子供の頃にはかなりの苦労人と見受けられます。



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1901年、姉で、イギリス人と国際結婚していた、ガントレット恒の夫妻が引き取り、岡山に移って養忠学校に入学しました。
この時、姉の夫であるエドワード・ガントレットから、西洋音楽を学んだのが、その後の人生の転機になったようです。

14歳になると関西学院中学部に転校し、16歳で「MY TRUE HEART」を初めて作曲しました。
その後、中退して1904年、東京音楽学校・予科に入学、1908年、東京音楽学校(東京藝術大学)声楽科を卒業しました。
この時、オペラ歌手・三浦環からも歌の指導を受けています。

1909年、オラトリオ「誓いの星」を上演し、東京音楽学校・分教場補助の仕事を得ています。



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1910年、三菱財閥の岩崎小弥太の援助を受けて、ドイツへ留学したため、許嫁の泰子と破局しています。
ドイツでは、ベルリン高等音楽学校作曲科に入学して、マックス・ブルッフから作曲法・指揮法を学びました。
また、カール・レオポルド・ヴォルフにも作曲法、シュミットには課外で声楽に師事しています。
ただ、ドイツでは、オペラ歌手としての演技力・歌唱力などが評価され、声楽家になることを勧められました。
滞在中に、日本人初の交響曲「かちどきと平和を」、オペラ「七人の王女」、楽劇「堕ちたる天女」などを作曲しています。
また、寄宿先のシュミット一家とディアハーゲンの避暑地で過ごすなどし、ドロテア・シュミットと婚約もしました。
この婚約ものちに解消しており、恋多き男性とも言えますが、生涯の結婚回数は5回に及びます。

1913年、独学で研究し、卒業制作として交響詩「曼荼羅の華」などを作曲し、フリィトリッヒ駅からモスクワ・大連経由で日本に帰国し、演奏会を開催しました。

1915年、東京フィルハーモニー会管弦楽部・首席指揮者に就任するも翌年には解散しています。

1917年、アメリカに渡って、カーネギーホールにて演奏会を開催。

1920年、日本楽劇協会を設立。
1921年、文化学院音楽科の主任に就任。
1922年、東京市民合唱団を組織。
1924年(大正13年)、北原白秋作詞の童謡「待ちぼうけ」を作曲。
1925年、日本交響楽協会を設立し、第一回演奏会を開催。

1926年9月、神奈川県茅ヶ崎市南湖に移住し、東京へは東海道線で通うようになりました。
また、箱根・芦之湯温泉の旅館「きのくにや」へも度々旅行しています。



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1927年、日本初のトーキー映画「黎明」の音楽担当。
1931年、ピギャール座の招きを受けてフランスに渡っています。
1930年、耕作を耕筰と改名しましたが、この時点で、戸籍上は元のままとなっています。
1933年、ソビエト政府(ロシア)の招を受けて、ロシアに渡りました。
1936年、フランス政府からレジオンドヌール勲章授章受章し、大日本音楽協会・副会長に就任。
1937年、相愛女子専門学校の教授に。
1940年、演奏家協会を創設し初代会長に就任。オペラ「夜明け(黒船)」初演し、朝日文化賞を贈られました。
1941年、内閣情報局管轄の日本音楽文化協会・副会長就任し、1944年には会長となっています。
1942年、帝国芸術院会員。
太平洋戦争中は、軍服姿で行動し、軍歌も多数作曲していたため、戦後、批判された。
1948年(昭和23年)、脳溢血で倒れて体が不自由(左半身不随)に。
1950年、日本指揮者協会会長就任。第一回放送文化賞受賞。
1951年、山田耕筰賞を設立。
1954年、映画「ここに泉あり」に、本人役で出演しました。
1956年、文化勲章を授章。妻・菊尾と離婚し、声楽家の辻輝子と再婚しましたが、このとき、戸籍上も山田耕作から山田耕筰に改めました。
これは、山田耕作と言う同姓同名の人物が多く、色々とトラブルが頻発していたのが、改名理由のひとつと考えられています。

1965年11月、聖路加病院に入院していましたが、新しい世田谷・成城5丁目の自宅に戻るも、12月29日心筋梗塞により死去。享年80(79歳没)

山田耕筰(山田耕作)は、瀧廉太郎の「箱根八里」や「荒城の月」を編曲し伴奏をつけたことでも知られます。

童謡の代表作は、赤とんぼ・夕焼雲(三木露風作詞)、からたちの花・この道・砂山・ペチカ・待ちぼうけ・あわて床屋(北原白秋作詞)、兎のダンス(野口雨情作詞)。
門下には、宮原禎次、清瀬保二、團伊球磨などがいます。



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2020年春からのNHK連続テレビ小説「エール」では、亡き「志村けん」さんが、山田耕筰を演じます。
ただ、数回の収録後に、新型コロナによる肺炎で死去されたため、収録分のみ、そのまま放送予定の模様です。
また、志村けんさんにとっては、朝ドラはもちろん、役者としてドラマ出演じたいが初めてのものでした。
改めまして、心よりお悔やみを申し上げる次第です。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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