三浦環 (みうら たまき)  世界から称賛されたオペラ歌手プリマドンナ

三浦環



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三浦環(みうら-たまき)は、日本で初めて国際的なオペラ歌手(ソプラノ歌手)として活躍し、世界的に知られた女性です。
本名は柴田環(しばた-たまき)と言い、1884年(明治17年)、東京都中央区京橋にて生まれました。
日本初の公証人となる法律家の父は、妾も抱えて芸事を好んだこともあり、幼い頃から日本舞踊を習い、その後、箏(こと)と長唄も始めたそうです。
ちなみに両親はのち離婚しています。

三浦環は、当時、ハイカラだった虎ノ門の東京女学館に進学しましたが、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部)出身の、憧れの音楽教師・杉浦チカから強く勧められて、1900年(明治33年)、16歳のとき、東京音楽学校に入学しました。
しかし、音楽家になることを反対した父を説得するため、入学直前に、陸軍三等軍医正・藤井善一と結婚していますが、夫はすぐに中国へ赴任しており離れ離れで暮らすことになりました。
自転車で通ったと言う東京音楽学校では、ピアノは瀧廉太郎から教わり、声楽は幸田延から習い、ヴァイオリンもアウグスト・ユンケルについて勉学に励んだようです。
なお、若い女性が自転車に乗るのも珍しい時代であり、三浦環はさらに美人であったため、道路では見物人も出たと言います。
また、学校では、瀧廉太郎からプロポーズを受けましたが、人妻であると断ったとか?
※女性が結婚しているのは校則違反であったため、学校には隠していたようですが、役所への婚姻届けは卒業後の1905年に提出しています。

1903年(明治36年)7月23日、旧東京音楽学校・奏楽堂(そうがくどう)でオペラ公演に出演しました。
この三浦環が出演したオペラ公演は、日本人よる初めての公演として成功させています。



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1904年(明治37年)に卒業すると、奨学金にて研究科に入る傍ら「授業補助」をすることになり、21歳の若さで、声楽を学生にも教えました。
その後、助教授となり、山田耕筰らを指導しています。
2歳年下の山田耕筰はいたずら好きで、三浦環は困っていたとのエピソードもあります。

1905年、夫が日本に戻り、ようやく、一緒に生活するようになりますが、三浦環は自宅でも弟子を取っており、帰りも遅いことが多いことから、夫の藤井善一は不満を募らせたようで、三浦環に音楽活動を辞めるように頼みました。
1907年、三浦環と母・登波は、婿養子の藤井善一と離婚する道を選択しています。
すでに三浦環は、有名なオペラ歌手となっていたため、この離婚は、新聞などでも騒がれたと言います。

1911年からは、渋沢栄一らが建設した帝国劇場に所属し、日本人で最初の洋楽レコードを出すなど、プリマドンナ歌手として活躍しました。



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その後、遠縁で昔から三浦環が好きだった医師の三浦政太郎から「結婚してくれなければ死ぬ」と言う手紙を受けて、1913年に再婚しています。
ただ、その直前に、前夫・藤井善一が再婚する報告のため、三浦環が会ったことが勘違いされて、三浦政太郎との「密会」だと報道され、三浦環は東京音楽学校を辞めるはめになり、三浦政太郎も東京大学医学部を辞職しています。
しかし、三浦政太郎の「自分は潔白だから世間の目は気にしないし、音楽活動は続けるべきだ」の声を受けて、2人は結婚したと言う事のようです。
ただし、世間が騒ぐので、1914年、シンガポールを経て、夫とともに自費でドイツに留学しました。
当初は、日露戦争に勝利していた日本人として歓迎されましたが、第一次世界大戦になると日本人は非難されたため、日英同盟を結んでいたイギリスに移動してオペラ活動を行っています。
イギリス最大のアルバートホールの舞台に立つと、アンコールが続いたため「サクラサクラ」、「ほたる」の2曲を歌ったと言います。
この日本人女性のデビューの模様は、美しい声と芸術性をもった歌手として、世界各国の新聞特派員によって報道されました。
イギリス国王ジョージ5世も臨席するなか、日本をテーマにしたオペラ「蝶々さん」を演じ、その後、アメリカに渡るとボストンでも公演しています。

蝶々夫人(ちょうちょうふじん)(マダマ・バタフライ)と言うのは、プッチーニが作曲した2幕のオペラです。
日本の長崎が舞台で、没落した大村藩士の娘・蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いた内容となっています。
曲は、フィギュアスケートの日本人選手が採用することもあります。

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、三浦環が迎えられた日本で初めての歌手となりました。
その後、ロンドンに戻ってビーチャム歌劇団と共演を果たしています。

1918年、アメリカ合衆国に戻ると再び「蝶々夫人」などを上演。
日本の「音楽大使」としてホワイトハウスも訪れています。

1920年には、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場でもゲスト出演しました。
ローマ公演では、明澄甘美な歌声に感動した作曲者プッチーニから「わが夢」と激賛されるほどであったと言います。
1922年、日本に戻ると長崎にて「蝶々夫人」のゆかりある土地を周り、演奏会を開いています。
この頃、日本では本格的なオペラを上演するような状態が整っていなかったため、独奏会などが中心だったようです。



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ちなみに、1924年(大正13年)、ビタミンを研究していた夫・三浦政太郎は、お茶にビタミンCが大量に含まれていることを最初に発見した研究者としても、知られます。

三浦環は、南米なども周り、引き続き、海外で活躍していましたが、愛人とされた伴走者のアルド・フランケッティが、三浦環の弟子であるエセル・ベアードと結婚すると、夫の元へと帰国する決意をしました。
しかし、その翌月に、夫・三浦政太郎も亡くなったと知らせが届き、帰国するのを辞めて、再度、アメリカやイタリアに渡ってオペラに出演し、1935年にはシチリア島のパレルモで「蝶々夫人」での出演回数が延べ2000回に到達しています。

2000回を機に、その後は、日本国内で活動することを決め、1935年11月に帰国しました。
夫・三浦政太郎の墓参りにも、マスコミが付きまとい、非難も浴びたようです。
日本国内では「蝶々夫人」の公演に引き続き出演し、オペラへの出演だけでなく、リサイタル開催、レコーディングなども行いました。

1935年(昭和10年)に古関裕而作曲、高橋掬太郎作詞、歌手・音丸の「船頭可愛や」がヒットすると、「これは素晴らしい。ぜひ私も歌ってレコードに入れたい。」として、三浦環も「船頭可愛や」の青盤レコードを発売しました。
当時まコロムビアでは、外国の著名な芸術家のレコードのみ青いラベルを貼っていたそうです。
日本人の青盤は、ごくわずかでした。
その後、古関裕而がお礼に作曲した「月のバルカローラ」も青盤レコードで発売されていますが、古関裕而作曲のレコードで青盤になったのは、この2曲だけです。
ちなみに、古関裕而の奥さま(古関金子)も、オペラ歌手を目指していたことから、ずっと三浦環のファンだったそうです。
オペラ歌手でも、流行歌に対応できない歌い手が多い中、三浦環は見事に歌いきっていたのでした。



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その後、三浦環は音楽界や慰問団にも参加しましたが、太平洋戦争(第二次世界大戦)が激化すると、1944年3月には山梨県の山中湖に疎開しています。
母・登波も体調が悪く一緒に疎開し、母の看病を続けながら、地元の人々とも気さくに交流したと言います。

1945年、太平洋戦争は終戦となり、日比谷公会堂に於いてシューベルト作曲「冬の旅」全24曲のリサイタルを計4回開いています。
アメリカ進駐軍の慰問としても、美声を披露しましたが、体格が良かった大きな体も、やせ細り、1946年に入ると、大東学園病院に入院しました。
すでに膀胱ガンのため、歩けない状態だったと言います。

ドクターストップも振り払って、日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」全20曲のリサイタル公演を開催し、NHKラジオでも3回の録音を行いました。
しかし、うまく歌えていない自分の声を聴いて「死相が漂っていると」泣き崩れたと言います。

しかし、病状が悪化し、1946年4月に大東学園病院から東京大学付属病院に転院します。
愛弟子である小林伸江に世界を駆け巡った自分の舞台衣装を贈るように遺言し、三浦環は1946年5月26日に亡くなりました。享年62。
遺骸は本人の希望で解剖され医学の役に立ちました。
6月に、日比谷公会堂にて音楽葬が盛大に行われています。



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墓所は、前年に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸の寿徳寺にあります。
記事トップの写真は、長崎グラバー邸にある銅像です。

2020年上期のNHK朝ドラ「エール」では、三浦環をモデルにした双浦環(ふたうら-たまき)を、女優の柴咲コウさんが演じられます。

古関裕而大全集のCDには音丸の「船頭可愛や」だけでなく、三浦環が歌った貴重な音源も収録されてます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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