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高橋掬太郎(たかはし-きくたろう)は、昭和初期から活躍した作詞家です。
出身は、北海道根室市で、明治34年(1901年)国後島にあった漁師の家に生まれまたと言います。
※本籍は岩手県沼宮内。
本名は、高橋菊太郎と書きます。
19歳の時に父を亡くしたため根室商業学校を中退し、茂又勝雄の私塾に通って国文学を学びました。
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1920年(大正9年)、根室新聞社に入社すると、社会部の記者となる傍ら、高橋春波のペンネームで文筆活動を始めています。
大正11年(1922年)、函館日日新聞に移ると、社会部長兼学芸部長として頭角を現したほか、詩・小説・脚本などの執筆も続けたようです。
その函館日日新聞の記者時代に作詞したのが「酒は涙か溜息か」で、作曲家の古賀政男を直接指名して寄稿し、1931年(昭和6年)、藤山一郎が歌うレコードが大ヒットしました。
1933年(昭和8年)には東京に出て、作詞したものは、いくつかのレコード会社にて発表されるようになり、売れっ子の作詞家となりました。
昭和9年には古関裕而作曲、歌手・松平晃の「利根の舟唄」。
昭和10年には大村能章作曲、歌手・伊藤久男の「雪の国境」。
そして、古関裕而作曲、歌手・音丸の「船頭可愛や」が大ヒットしています。
この新民謡調の「船頭可愛や」は、古関裕而にとっても最初のヒット作となりました。
のち、オペラ歌手・三浦環も歌い、「船頭可愛や」のレコードが発売されています。
その後、約2000人の門下生を育て、石本美由起、宮川哲夫、藤間哲郎、東條寿三郎、星野哲郎ら多くの作家を輩出しています。
太平洋戦争が終わったあと、1947年(昭和22年)には日本音楽著作家組合を設立しています。
また、1950年(昭和25年)に日本民謡協会、1960年(昭和35年)に日本詩人連盟の結成にも加わりました。
1968年(昭和43年)には紫綬褒章を受章。
1970年(昭和45年)4月9日死去。享年68。
同日に従五位に叙されており、勲四等旭日小綬章を授与となっています。
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函館市宝来町にある高田屋嘉兵衛銅像の近くに、高橋掬太郎歌碑があります。
墓所は、東京都東村山市の小平霊園で、酒は涙か溜息かの歌碑が添えられています。
2020年度上期のNHK連続テレビ小説「エール」では、古山裕一(モデルは古関裕而)の作曲を気に入る作詞家として、高橋掬太郎をモデルとした高梨一太郎(ノゾエ征爾さん)が登場します。
・古関裕而 日本人の心に残っている稀代の作曲家【朝ドラ・エールのモデル】
・三浦環 世界から称賛されたオペラ歌手プリマドンナ
・伊藤久男 栄冠は君に輝くを歌った歌手
・野村俊夫 福島三羽カラスと呼ばれた作詞家
・藤山一郎とは 国民的歌手として長年活躍
・古賀政男とは 古賀メロディーと呼ばれた稀代の作曲家
・「音丸」船頭可愛やなどのヒット曲で知られる下駄屋の娘
・エール~キャスト・出演者一覧リスト【NHK朝ドラ】
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