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小林一三(こばやし-いちぞう)は、明治6年1月3日、山梨県巨摩郡河原部村(韮崎市)にて裕福な商家に生まれた。
しかし、生まれてすぐに母親が死去し、父とも生き別れたとなったため、おじ夫婦に引き取られたて育ったと言う。
高等小学校を卒業すると、東八代郡南八代村(笛吹市八代町南)にあった加賀美平八郎の私塾・成器舎に入り、その後、上京して1888年(明治21年)2月に、福澤諭吉の慶應義塾に入学した。
学生の頃は作家で身を立てると決心しているが、同じ慶應出身者に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門がいる。
また慶応在学中には、山梨日日新聞にて小説「練絲痕(れんしこん)」を連載した。
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慶應義塾卒業後すると、1892年(明治25年)に三井銀行(三井住友銀行)にて34歳まで勤務した。
大阪支店では趣味の小説を書いたりのんびり過ごし、夜は花柳界に通っていたが、上司の支配人として岩下清周が赴任して来ると、毎日仕事漬けの日々となる。
しかし、独断専行が目立つ岩下清周が辞職に追い込まれると、小林一三も九州に転勤となっている。
日露戦争後、三井物産の飯田義一や、藤田組の藤田伝三郎、かつての上司で北浜銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)を設立していた岩下清周らの誘いで、1907年(明治40年)に新設する証券会社の支配人になるために大阪に赴いた。
しかし恐慌となって、株式市場は暴落。
証券会社設立の話は無くなり、妻子を抱えて失業しているが、小林一三の夫人・幸(コウ)は幼い頃、御者に「将来の旦那さんは必ず出世する」と言われたことを信じていたと言う。
その頃に小林一三は、梅田に直接乗り入れる箕面有馬電気鉄道が設立されるも、直後に怒った恐慌で、株式の引き受け手が資金の払い込みをためらい、株式の半分も引き受け手なしと言う苦境に追い込まれていると言う話を聞く。
しかし、この電鉄事業の有望性・将来性を見抜いた小林一三は、北浜銀行頭取・岩下清周に説いて、北浜銀行に株式を引き受けさせた。
こうして、阪鶴鉄道買収直後の1907年(明治40年)10月19日に箕面有馬電気軌道が設立されると、小林一三は専務に就任。
1910年3月10日に梅田駅~宝塚駅間、石橋駅~箕面駅間が同時開業した。
小林一三の高級嗜好によるものか、当初より用いられた塗装色「阪急マルーン」は、現在でも引き継がれている。
鉄道事業としては後発でもあり沿線が田園地帯であったため、採算が取れないのではと言う声も裏腹に、開業後、すぐに営業収入は2倍となり、不在だった社長に代わり、引き続き小林一三が実質的な経営者として様々な事業を展開した。
まず、小林一三は鉄道計画に基づいて、線路通過予定地の沿線土地を先に買収。
鉄道事業としての付加価値を高めるため、郊外での宅地造成開発を行い、1910年(明治43年)に分譲販売を開始した。
サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売(月賦販売)を行い、成功を収めている。
駅の有料広告もなかった時代、今では当たり前でもある、電車の中吊り広告を考えたのも小林一三である。
また、箕面には日本最大級の箕面動物園を開設し、休日の乗客増加を図ったが、巨費を投じた箕面動物園は失敗し、以後は徹底的なマーケティングを行っている。
1911年5月には宝塚に新温泉を開湯し、1914年(大正4年)には現在の宝塚歌劇団の前身となる「宝塚唱歌隊」を創設した。自ら脚本を書く事もあったと言う。
これらの施策は鉄道事業での収益増加にもなったことから、日本の私鉄での沿線開発において模範的となる。
小林一三の成功に際して「乗客は電車が創造する」という有名な言葉も生み出されているが、小林一三が目指したのは、大衆が主人公となれる社会であった。
1918年、都市間を結ぶ鉄道路線として神戸方面への開業に動き出す際に、社名を「阪神急行電鉄」(阪急)と改めて、神戸本線などを開業させると、大阪~神戸間の輸送客増加とスピードアップを図った。
なお、箕面有馬電気軌道は、一部とはいえ路面を走行する事から、鉄道省があくまで軌道法準拠の「電気軌道」であるとして「鉄道」と称する許可が得られなかった。
そのため「電鉄」という言葉は、小林一三が考えた言葉で、以後、軌道法監督下の各社が併用軌道区間を廃止し、高速電気鉄道へと転換する際に有効活用されることとなった。
そして、1927年(昭和2年)に小林一三が社長に就任している。
1920年(大正9年)には、日本ではじめてとなるターミナル・デパートとなる5階建てビルを梅田駅の隣に建設し、1階には東京から白木屋を誘致し、2階には阪急直営食堂を設けた。
駅とショッピングセンターを融合させた訳だが、この時3階~5階にはテナントなどは入れないで、すぐに百貨店はオープンさせず、5年間、、白木屋の品揃え、陳列方法を変えたりし、徹底して客足やニーズを研究・分析した。
そして、白木屋との契約が満了すると、1929年(昭和4年)3月に「阪急百貨店」を開店。
大衆食堂の阪急直営食堂は、4階・5階に移してハイカラな洋食などを低価格で提供し、下階では食料品や生活雑貨を販売。
鉄道利用者の利便性を考慮して夜間営業も行っている。
世界でも鉄道会社が百貨店を直営する例はなかったが、小林一三は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」とし、世界恐慌のさなかにも拘わらず、多数の客を集めることに成功した。
ちなみに、1918年(大正7年)に渋沢栄一らが創設した東京急行電鉄の祖である田園都市株式会社の経営も頼まれており、田園調布を開発した事で有名な田園都市株式会社は、小林一三が名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみと言う事で事業を進めている。
のち、東急も小林一三の手法を用いて、東横線沿線に娯楽施設やデパートを作った。
土地の有効活用を相談した味の素の社長・鈴木忠治らには、日本初のビジネスホテル「第一ホテル」を提案している。
敷地いっぱいにビルを建てて、シングルルームを主にすれば客室数が確保できる。
出張者を相手にするホテルだから、宴会場なんか作らない方が良いが、冷暖房は外国のホテルに負けないサービスにする。
食堂は出張者で朝は混むが、夜は利用者が少ないので、宿泊客でなくても食堂だけ利用できる設計にすれば良い。
シングルルームは東京~大阪間の寝台料金と同じ価格設定で、全く新しい経営方法ゆえ、従業員も未経験者にすればいいと、斬新的なアイデアを出した。
1936年(昭和11年)には、オリックス・ブレーブス(阪急ブレーブス)に至った大阪阪急野球協会を設立した他、1937年(昭和12年)には東宝映画を設立(現在の「東宝」)といった興業・娯楽事業だけでなく、ホテル事業にも参画。
阪急の退職後は、東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任して経営を立て直し、昭和肥料(昭和電工)の設立にも関わっている。
近衛文麿のもとでは第2次近衛内閣にて、小林一三が商工大臣に就任。夏の甲子園高校野球大会創設にも尽力した。
しかし、革新官僚の代表格である岸信介と激しく対立。
企画院事件で革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕されると、岸信介は辞職して軍部と結託し、小林一三が軍事機密を漏洩したとして反撃に出ている。
終戦後は幣原内閣にて国務大臣を務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことから公職追放となった。
1951年(昭和26年)に追放が解除されると東宝の社長に就任したが、1957年(昭和32年)1月25日、急性心臓性喘息となり、大阪府池田市の自邸にて死去した。享年84。
長男の小林冨佐雄は、東宝代表取締役社長を務めた。
次男の小林辰郎は、松岡家に養子入りしたのち、東宝代表取締役社長を務めている。
この松岡辰郎の子が現在の東宝会長・松岡功であり、その子で小林一三の曾孫となるのが、プロテニスプレイヤーの松岡修造だ。
次女・小林春子は、サントリー創業者である鳥井信治郎の長男・鳥井吉太郎に嫁いだ。
鳥井吉太郎は33歳の若さで亡くなったが、その子・長鳥井信一郎が3代目のサントリー社長となった。
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