小田村篤太郎(楫取希家、小田村希家)と小田村久米次郎(楫取道明)、杉小太郎(吉田小太郎)も


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小田村篤太郎(楫取希家、小田村希家)

 小田村伊之助(楫取素彦)と、杉寿の間に生まれた長男が小田村篤太郎(楫取希家、小田村希家)である。
 幕末に奔走した小田村伊之助が命を狙われるのを危惧した長州藩は、名を楫取素彦と改めさせるが、小田村家が無くなるのを惜しみ、長男・楫取希家(小田村篤太郎)に、小田村の姓を名乗らせ、小田村希家として継がせている。

 なお、小田村篤太郎(おだむら-とくたろう)は特に功績などを残していないため、これ以上、記載することがない。

 この小田村希家の養子となったのが、小田村有芳で、東京帝国大学工学部機械工学科を1906年に卒業した際、成績優秀として天皇より恩賜銀時計を拝受もした秀才。
 のちに磯村工業所(磯村産業)の会長を務めるなど、実業界で活躍した。

 この小田村有芳の妻は、楫取素彦の次男・楫取道明の三女・楫取治子でうり、小田村有芳は養子ながらも、その子孫には楫取素彦の血が継がれている事となる。

 社団法人・国民文化研究会の理事長や亜細亜大学教授を務めた小田村寅二郎は、小田村有芳の次男で、1943年に学徒出陣するも、終戦後東京大学に復学し、大蔵官僚となったあと拓殖大学第16代総長を務めた小田村四郎は、小田村有芳の四男にあたる。

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小田村久米次郎(楫取道明)

 小田村伊之助(楫取素彦)と、杉寿の間に生まれた次男・小田村久米次郎(楫取道明)は、久坂玄瑞の死後に、杉寿の妹である杉文(久坂文)の養子となって、一時久坂家を継いだが、のちに久坂玄瑞が京で作った子に久坂家相続が認められたため、楫取家に戻ると楫取道明を名乗った。

 日清戦争に勝利すると明治28年に台湾が割譲され日本が統治した際、楫取道明は台湾の小学校(芝山巌学堂)に教師として赴任し日本語を教えた。
 その年(明治28年)の暮れになると治安が悪化したが、台湾に赴任した教師らは「台湾での教育に命を懸けている」として、決して日本に戻る事もせず、警護をつけたり武装することもしなかった。
 しかし、明治29年元旦、約100人の抗日ゲリラに遭遇。
 教育の必要性を訴えたが、聞き入れられず楫取道明ら六氏先生が殺害されると言う「芝山巌事件」にて命を落とした。享年38。
 父・楫取素彦や楫取美和子(杉文)よりも早い死であった。

 台湾統治時、児童の就学率は0.6%程であったが、太平洋戦争終戦前には70%にもなると言う、日本は台湾での教育にも力を注いだ、この台湾教育の祖「六氏先生」の1人として慕われている。

杉小太郎(吉田小太郎)

 杉小太郎(吉田小太郎)は、杉梅太郎(杉民治)の長男。

 吉田松陰の死のあと、長州藩より吉田家のお家再興が許されると、杉小太郎が吉田小太郎と称して吉田家を継いだ。

 1876年(明治9年)、前原一誠が新政府に不満を抱き「萩の乱」を起こすと、杉小太郎(吉田小太郎)はこりに参加するも戦死してしまった。

 叔父の玉木文之進も、萩の乱が勃発した責任を感じて切腹している。

 →小田村伊之助(楫取素彦)はこちら
 →花燃ゆの「明治編」出演者一覧

 

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