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北海道の道東、目の前にはロシア領となっている国後島が見える野付半島に、会津藩士の墓があります。
幕末の動乱期、会津藩は松平容保が藩主となり、安政6年(1859年)になると、徳川幕府から北方警備のため標津(しべつ)、斜里(しゃり)、紋別(もんべつ)が領地として譲渡されました。
そのため、会津から藩士を標津に派遣し、1868年(慶応4年)まで、蝦夷地の開拓と、ロシアの進出を防ぐための北方警備にあたっています。
東北諸藩は、寒さに強いだろうと言う簡単な理由から、蝦夷地の警備を担ったわけです。
網走は箱館奉行の管轄でしたが、警備は会津藩が行っています。
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会津藩は、1861年(文久元年)に、中老・田中玄純(田中鉄之丞)が蝦夷地若年寄として新領地を検分しました。
標津に入ると現地の漁場番人やアイヌ人らをを集めて、きちんと挨拶と着任式を済ませたと言いますので、律義な会津藩らしいですね。
会津藩は1862年(文久2年)になると、標津のホニコイに陣屋を設けています。
現在の標津町ホテル楠付近です。
御普請方・鈴木平八の日記「会津藩御陣屋御造営日記」も現存します。
函館(箱館)にて、材木を切って製材したものを、船で標津まで運んで、組み立てたあり、11隻の船で物資や人員を運ひんで、1863年(文久3年)の秋には、なんとか6棟の陣屋が整ったとあります。
このホニコイ陣屋では、代官以下200余名の会津藩士が北方警備を担当しました。
会津から日本酒を持ち込んではいますが、冬は野菜も取れず、マイナス20度以下になる越冬は過酷です。
会津藩に限らず、庄内藩・弘前藩・南部藩でも、多くの藩士が脚気(ビタミン不足)などで命を落としています。
標津からちょっと離れますが、北方領土の国後島を望む野付半島に、会津藩士の墓があると言う事になります。
1863年(文久3年)に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓とされます。
会津藩は朝敵となり、1868年(慶應4年)には戊辰戦争が始まりました。
標津の会津藩士は、急ぎ国元へ戻ったと言い、会津戦争にてまた多くが命を落としました。
野付の会津藩士の墓がある場所は、当方の北海道オリジナル地図にてわかるようにしてあります。
残念ながら駐車場はありませんので、駐車禁止ではない道路に止める際にはハザードを出して短時間でお願いしたいと存じます。
・津軽藩士シャリ陣屋と津軽藩士殉難事件
・野付半島~両側が海で現実離れした原生風景や国後島も
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