黒河内伝五郎 会津藩 幕末最強と言われる剣客

 大河ドラマ「八重の桜」で、中野竹子山本八重ら女性の薙刀指導の場面や、日向ユキが会津城下を逃げ惑う際に、単身援護するシーンなどで度々登場する「黒河内先生」について、触れておきたい。

 この黒河内伝五郎は1803年、会津藩・御側医師・羽入義英の次男として生まれた。
 黒河内治助兼博の神夢想無楽流の居合術を師事すると、その後養子となり、黒河内伝五郎兼規と名乗った。
 黒河内家は代々神夢想夢楽流居合術の師範家で、この黒河内伝五郎は幕末最強の剣客と言われる。

 居合術だけでなく、神夢想一刀流、稲上心妙流柔術、静流と穴沢流の薙刀術、宝蔵院流高田派の槍術、白井流手棒術、手裏剣術、鎖鎌術、針吹術、馬術、弓術、吹矢術と、この時代にあったすべての武芸百般に通じる武芸の達人なのだ。

 会津剣道誌によれば「居合術に於いては、自ら箸を空中に投げて、その落ちる前に刀を抜いて截つことは自在であった。余芸である含み針は一寸ばかりの小針数十本をふくみ、一丈ばかり隔てた障子に向かって針を吹くと、次々と針が一つの穴を通ったともいわれている。また手裏剣に於いても小銭を柱に掛け、一丈八尺を隔ててこれを打って一つも過たず、真中の方
孔を射たという。柔術に対しては人と異なる見解を有し、「柔術は技芸の元素なり、これを窮すれば他の芸術は推窮するに難からず」と門弟に教えていた。晩年、眼疾を患い失明したが、なお武芸に精進して止まず常に刀を抜き、手裏剣を修練し心眼を得て目標に百発百中であっ たというから驚嘆するほかはない。」と記載されている。

 黒河内伝五郎は黒河内家を継ぐと、会津藩の武芸指南役となり13石2人扶持となった。


 天保年間(1830年~1844年)には、師志賀小太郎が長州藩に招聘せられるや、他の高弟数名とともに随行し、長州藩藩の子弟に槍術を指南した。
 また文芸においては沢田名垂の高弟として和歌をにも通じており、その実景を詠ずることに長じた。
 野矢常方、西郷近思、柴茂蔭らはみな雅友であったが、平生詠草を留めず、したがって遺稿も残されていない。

 また1852年、吉田松陰が会津を訪れた際には日新館へと案内している。

 晩年には眼病を患い失明したが力量はいささかも落ちることがなかったと言われている。

 黒河内伝五郎には二人の子供がいたが、戊辰戦争の際に次男・黒河内百次郎は佐川官兵衛の甲士として北越で奮戦。
 しかし、6月に重傷を負い若松城下の自宅に戻っていた。

 8月23日、新政府軍が若松城下に迫った事を知ると、黒河内伝五郎は藩主松平容保公の在す鶴ヶ城を伏し拝み、見えぬ目ながらも負傷していた黒河内百次郎を介錯した後、自らも命を絶ったと言う。
 黒河内伝五郎、享年65。

 なお、長男・黒河内百太郎は二番砲隊として奮戦した。しかし、被弾・負傷し8月24日に戦死。
 三男・黒河内伸三郎は、西南戦争に参戦したと言う。

 (参考文献) 『幕末維新人名事典』新人物往来社、小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社

 

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