日向ユキ (ひなた ゆき) ~山本八重の幼なじみ


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日向ユキは、1851年、会津藩士・日向佐衛門(日向左衛門)と日向ちか夫妻の2女として会津若松城下で生まれた。

父・日向佐衛門(日向左衛門)は会津藩の上士(上級藩士)で御旗奉行400石。

実母の日向ちかは、飯沼粂之進(400石)の娘でこの ちか の実姉は飯沼家から西郷頼母に嫁いだ西郷千重子である。

白虎隊の生き残りで有名な飯沼貞吉と日向ユキはいとこにあたる。

母の日向ちかは2男2女を産むが、日向ユキが3歳の時に病死(享年32)。その後、有賀豊之助の妹・有賀秀が後妻として入り、男子4人を出産している。



父・日向左衛門はしつけに厳しかったようで、後妻の有賀秀も実子と義子との差別を許さなかったため、日向ユキは可愛がられもせず、疎まれもしなかったようだ。

山本八重の家と垣根を隔てた斜め裏の米代四ノ丁(下米代3ノ丁とも?)に邸宅があったとされ、高木時尾の高木家も隣家で、幼少の頃は高木家で過ごすことが多かった。

近所だったことから、日向ユキ・高木時尾・山本八重の3人は幼なじみだったのだ。

高木家では父は既に亡くなっており、長男・高木盛之輔(せいのすけ)が家督を継ぎ、祖母と母と姉・高木時尾の計4人が生活していた。

高木家では高木家の祖母が裁縫を教えており、日向ユキや山本八重も高木家で、供に裁縫を学んだ。高木家の祖母は盲人だったが、何でも出来る人だったという。

父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが、町奉行の風紀の乱れを正すため、戊申戦争の直前に自ら望んで町奉行に降格していた。

1868年8月23日、新政府軍が会津若松城に侵攻した際、日向ユキは18歳。

城内に入ろうとしたが、門が閉じられ入城できず、日向ユキは祖母、継母・日向秀、弟2人、妹6人とで、敵が城下にいる中を抜けて市外に逃れ、御山在の肝煎栗城伝吉という百姓の家で終戦まで無事に過ごせた。

父・日向左衛門は8月23日朝の大町口郭門の戦いで、町奉行として奮戦。馬が撃たれた後も、馬を降りて戦ったが重傷を負い、郭門付近にあった母親の実家である加須屋大学(800石)の屋敷内の竹やぶにて自刃。

兄・日向新太郎はまだ20歳だったが、遊撃二番隊の半隊頭をつとめて城下各地を転戦していた。

9月8日の朝、濃霧の中、材木町の南端柳土手で銃撃戦を展開(飯寺の戦い)。腰に敵弾を受けて立てなくなるも、座ったまま射撃を続けたが、今度は肩を撃たれ発砲もできなくなっり、部下に介錯を命じた。

敵兵が包囲・接近した為、部下はやむなく日向新太郎の首を稲田の稲束の中に隠して後退した。

終戦後も、日向家の女性らは御山在に留まり、肝煎栗城伝吉の世話になりながら、御山在で約1年を過ごしたようだ。

会津藩の戦死者の埋葬がようやく許された翌年、父親の遺体を探していた日向ユキは加須谷邸の竹藪で、ボロボロになった日向左衛門の紋付きと頭蓋骨を発見。

義母の有賀秀も日向左衛門に間違いないと確認し、浄光寺に埋葬した。

その後さらに兄・新太郎の部下より、日向新太郎の最期の様子を聞き、兄の首を探しに出た。

その際、犬がその首をくわえて来たので処置に困り小川に流したという話を村人から聞き、遂にその首を見つけだして、父の墓と並べて葬ったとされる。

会津藩が青森・斗南に移封となりると、日向家も徒歩20日掛けて、野辺地に到着。

針仕事などしながら暮らしていたが、義母の有賀秀が奉公先の関係で青森へ行くことになり、日向ユキらも青森へ移った。

青森では、北海道函館に住む雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が2人とも病気で困った事から、手伝いに来て欲しいと頼まれる。

雑賀繁村の妻・雑賀浅(さいがあさ)は、会津藩家老・簗瀬三左衛門の娘で、日向ユキと雑賀浅の2人は旧知の仲だったのだ。

1872年(明治5年)2月、日向ユキはこの話を引き受け、青森から函館へ向かい、函館の雑賀家で奉公を始めた。



札幌の開拓使・内藤兼備が函館へ出張した際、内藤兼備は雑賀繁村の自宅を訪れ「会津の女性を嫁に欲しい」と希望する。

そこで、雑賀夫婦の世話をしていた、会津出身の日向ユキに結婚の話が持ち上がったが、最初ユキは拒んだとする。

しかし、内藤兼備の熱意もあり、日向ユキは1872年(明治5年)11月3日、北海道・札幌にて開拓使・内藤兼備と結婚。

内藤兼備は旧薩摩藩士で、明治政府の官僚として北海道開拓を担当していた。会津藩と薩摩藩は犬猿の仲である為、敵味方の怨讐を超えた「会津・薩摩の結婚第1号」とされている。

内藤兼備は北海道での土木・営繕事業、石狩での鮭缶詰業に関わり、のち札幌県土木課長、1886年(明治19年)からは北海道庁土木課長などを歴任した。

会津藩降伏から時は20年以上流れた1897年(明治20年)6月17日、新島襄と結婚していた山本八重(新島八重)は仙台東華学校の開校式に出席。

その後、避暑のために北海道旅行に行き1897年(明治20年)7月3日に函館に到着。

新島八重と新島襄の2人は函館に4日間滞在した後、新島襄がアメリカに密出国した際の恩人・福士卯之吉に会うため、函館から札幌へ向かった。

函館で住んでいた雑賀夫婦も既に札幌へ移住しており、新島八重は札幌で雑賀浅と再会もした。

このとき、新島八重は、雑賀浅から、日向ユキも札幌に住んでいることを聞き、1887年(明治20年)7月14日に日向ユキと山本八重は約20年振りの再会を果たしている。

内藤ユキは自身の体験を驚くべき記憶力で書いた「萬年青(おもと)」を残し、昭和19年に94歳の天寿を全うした。

内藤ユキは元薩摩藩士の内藤兼備と結婚したことを気にしていたのか、生涯、会津には帰らなかったとされる。

飯沼貞吉~命を授けられた白虎隊士の生涯

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタバレ、戊辰戦争百話、福島県観光交流局

 

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