山川健次郎  東京帝国大学の初代総長 会津藩魂


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 山川健次郎(やまかわけんじろう)は嘉永7年(1854年)生まれ-昭和6年(1931年)没。

 日本国内に設置された7つの帝国大学のうち東京帝国大学、京都帝国大学総長、九州帝国大学の初代総長に任ぜれている。
 さらに私立明治専門学校(現・九州工業大学)の初代総裁、旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学)の校長を歴任し、近代日本の教育制度の発展に尽力した日本の教育者である。

 会津藩家老職の家格を持つ山川家に生まれた。
 兄の山川大蔵(山川浩)は京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保に伴って上洛し、幕末の京都で皇室の警護、反幕府勢力である不穏浪士の取り締まりに当たるとともに、徳川幕府の使者に帯同してロシア、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の知見を得た。
 戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の戦い、江戸、会津への撤退戦の中、若年寄として戦費調達や藩兵の銃装備・洋式化を率先して行った。
 会津籠城戦に際しては防衛総督として圧倒的な巨大戦力を持つ新政府軍を相手に善戦したが、約1ヶ月で落城を余儀なくされる。

 このとき山川健次郎は15歳。16歳以上の入隊規定にも関わらず自ら白虎隊に参加したが年少組に属した為、悲劇の象徴とされる「飯盛山の自刃・惨劇」には巻き込まれず、籠城戦に合流し激戦を生き延びた。
 投降後は猪苗代で禁固・謹慎となるが越後へ脱走。
 長州藩士・奥平謙輔と会津藩士・秋月悌次郎とが藩の将来を担う人物として庇護するために計画したことであった。

 その後、明治2年5月に東京の長州藩邸において前原一誠(参議・兵部大輔)の書生となる。

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 明治4年、山川健次郎は18歳で新政府が派遣する米国留学生に抜擢され、渡米後エール大学で物理学を専攻する。
 新政府各藩が多数の留学生を送り出した結果、勉学しない不良学生が増加し国費留学への批判から、山川健次郎も在学中に帰国を命じられるも、現地で学資の援助を受け勉学に励み苦労の末22歳で学位を取得し帰国。
 東京開成高校で教授補として採用され、東京大学に組織変更後は26歳で邦人として初の物理学教授に任ぜられた。

 明治34年、山川健次郎48歳で東京帝国大学総長就任。
 賊軍とされた会津藩出身者が最高学府の総長に就くことに人々は驚きを禁じ得なかったと言う。
 その後、51歳で貴族院議員、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で請われて既に辞職していた東京帝国大学総長に復帰、61歳で京都帝国大学総長をも兼務する。
 62歳の大正4年(1915年)爵位を授与された(男爵)。

 会津藩士族の子弟として教えこまれた忠義心から芽生えた強い愛国心を貫き、日露戦争の際(健次郎50歳)には既に東京帝国大学総長に就任していたにも関わらず「一兵卒としての従軍」を志願し、陸軍の人事担当者を驚愕させた。
 また物理学の大家として冷静な現実主義者であり、大正時代の所謂「千里眼事件」では世論が揺れる中で最も早く疑念を表明し否定的な見解を示した。

 勉学に没頭することも含め生涯、会津の賊軍としての汚名をすすぐべく行動している。
 帝国大学総長に就任後も旧会津藩士やその子弟達への援助を続け、質素で清廉潔白な生活を過ごし借家住まいを続けた。
 会津藩主・松平容保の四男・松平恒雄は帝国大学を卒業後、外交官試験に首席で合格し駐米、駐英大使、宮内大臣と要職を歴任したが、山川健次郎はその娘・節子が皇室に入り、秩父宮勢津子(節子から改名)妃殿下となる過程に於いて奔走した。

 さらに山川健次郎は没した兄・山川浩が執筆途中であった「京都守護職始末」を引き継いで完成させ、幕末における会津藩事情を著した。
 旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と表現した初めての書であった。
 しかし、健次郎晩年の昭和初期でさえ、教育界の偉人としての発言としては憚られたのか、出版は没後7年を経てからとなった。

 (参考) Wikipedia、慈眼寺、あいづ人物伝、三井物産戦略研究所、会津人山川健次郎

 

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