錦小路頼徳 下関で若くして命を落とした七卿落ちの公家


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 錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)は唐橋在久の子として1834年4月24日に生まれた。
 のち、錦小路頼易の養嗣子となっている。

 1851年に叙爵を受け、1853年には大和権介となる。
 1858年、廷臣八十八卿列参事件に参加すると、尊皇攘夷派の公家として活躍した。

 1862年、従四位上右馬頭となり、公武合体派である久我建通の弾劾に加担した。
 1863年2月、壬生基修とともに外交は幕府一任という朝廷の方針の撤回を要請し、攘夷貫徹を求めた。
 すると、国事寄人に任じられ、孝明天皇の攘夷祈願として計画された、石清水八幡宮行幸に随従。

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 しかし、中川宮などによる八月十八日の政変にて失脚し、三条実美、壬生基修、三条西季知東久世通禧四条隆謌澤宣嘉とともに、七卿落ちの1人として長州藩に落ちた。

 その後、桑原頼太郎と名を変えて、長州攘夷派と行動したが、赤間関の砲台視察中に吐血して倒れ、1864年4月27日、下関の白石正一郎邸で病没した。30歳。

 辞世は「はかなくも三十年の夢のさめてけり赤間関の夏の夜の空」

 毛利敬親が喪主となって葬儀が5月8日に山口の龍泉寺にて執り行われ、赤妻神社に祀られた。

 没後、王政復古時に官位を復され、1870年(明治3年)に正四位を贈られている。

 (参考) Wikipedia

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣

 

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