東久世通禧 兵器に精通し北海道開拓にも尽力した公卿


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 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は、東久世通徳の子として、1833年11月22日に生まれた。

 東久世は久我家が本家の村上源氏であり、岩倉具視の岩倉家と同族の公卿で、蔵米30石3人扶持の下級公卿の家柄であった。

 10歳の頃、2歳年上の皇太子・統仁親王(孝明天皇)の遊び友だち・手習いに選ばれて、常に親王の側で過ごしたと言う。

 1849年には、孝明天皇の侍従に就任。

 孝明天皇もと1862年に国事御用掛となり、翌年には国事参政し、尊王攘夷派の公家として活躍。
 しかし、1863年、中川宮や薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変にて京を追われ、三条実美三条西季知澤宣嘉壬生基修四条隆謌錦小路頼徳らと共に長州へ逃れた、七卿落ちの1人である。

 1864年には、長州から大宰府まで落ち延びたが、この時、長崎にも赴き、10日と言う短い間ながらも、最新の軍艦や兵器などを学ぶ機会を得た。
 鉄砲の試し打ちもしたと伝わる。

 1868年、王政復古にて京に復帰すると、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍の参謀を務めている。

 さっそく1月17日には外国事務総督の1人として就任し、新政府最初の外交問題となった神戸事件の対応責任者として、伊藤博文と共に諸外国と協議した。
 この人事は、外国人と接触したことがある公家は東久世通禧だけであり、また最終決定者の天皇の意向を十分に理解し、また、判断を仰げる人物として適任だったとこが上げられる。
 外国人は東久世を決断と交渉力に優れた外交官であると評価している。

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 3月19日には横浜裁判所総督となり、神奈川裁判所総督、神奈川府知事(現在の神奈川県知事)を歴任。

 明治2年(1869年)8月25日には、第2代・開拓長官に任命され、開拓使の事業を開始。
 9月21日、開拓使吏員や農工民約200人と共に、品川からイギリスの雇船テールス号で出航し、9月25日に箱館に到着した。
 そして、開拓の中心を函館から札幌に移した功績が見える。
 なお、明治2年9月にはそれまでの功績として、賞典禄1000石を給された。

 明治4年(1871年)10月15日、明治天皇の侍従長となり、岩倉具視の岩倉使節団にも随行してアメリカに渡っている。

 明治15年(1882年)、元老院副議長。

 明治17年(1884年)、伯爵に叙された。本来では子爵相当であったが、このように功績が考慮された公家は、岩倉具視や三条実美など数少ない。

 明治21年(1888年)、枢密顧問官。
 明治23年(1890年)、貴族院副議長。
 明治25年(1892年)、枢密院副議長。

 1912年(明治45年)1月4日、満78歳で没した。

 (参考) Wikipedia、財界さっぽろ

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣
明治天皇とは 明治天皇の功績とその生涯

 

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