岩山糸~西郷糸子の解説 西郷隆盛3番目の妻の生涯~武町屋敷跡と南洲野屋敷跡




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西郷糸子(さいごう-いとこ)は、1843年に薩摩藩士・岩山直温(岩山八郎太直温)の娘として生まれた。
岩山糸、西郷糸、西郷イト、西郷以登とも書く。
母はエイ(栄、栄子)で、5人兄弟の2番目で次女であった。

岩山糸

岩山糸は一度、海老原家に嫁いでいたが離婚していたようで、薩摩藩家老・小松帯刀(30歳)の媒酌にて、1865年1月28日、西郷吉之助(西郷隆盛)37歳と結婚した。
この時、岩山糸(西郷イト)は21歳で、西郷吉之助とは16歳違いとなる。

なお、西郷隆盛が遠島になっていた沖永良部島から戻って約1年後のことで、その間、禁門の変(蛤御門の変)や長州征伐の参謀として活躍し、鹿児島に帰ってから僅か2週間後のことであったと言う。
薩摩藩士・有川矢九郎が、妻の従妹であった糸子(イト)を連れて来て、いきなり西郷隆盛に「よかよか」と了承させたと言う。

加治屋町にあった西郷隆盛の生家は、借金返済のために既に売却していた為、西郷隆盛と糸は上之園の狭い借家で暮らした。
同居したのは、西郷家の次男・西郷吉二郎(31歳)と妻のマス、子の西郷美津(西郷ミツ)と西郷勇袈裟(ゆうげさ)の4人家族と、四男・西郷小兵衛(こへえ)17歳、および熊吉ら数人の使用人。


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しかし、結婚から8日後には藩命で、西郷隆盛は福岡と京都に出張すると言う多忙を極め、1年のうち大半は鹿児島を留守にしている。
なお、1865年5月1日、西郷隆盛が小松帯刀と鹿児島に帰った際には、坂本龍馬も同行しており、西郷家に泊まっている。
その時、隣の部屋で糸子が西郷に「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」と提案すると、西郷隆盛は「今は国中の家が雨漏りをしているのに、うちだけ直すわけにはいかない」と言うのを聞いて、坂本龍馬が感心したと言うエピソードもある。
のち、坂本龍馬が姉・乙女に出した手紙では、「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、この方に妻など頼めば何も気づかいなし」と、何かあった場合に妻のお龍を西郷家に託すよう頼んでいる。

1866年7月12日、イトは西郷寅太郎(さいごう-とらたろう)を産み、次男ながら長男の西郷菊次郎は庶子であったため、西郷寅太郎が西郷家の嫡子とされている。
1868年には戊辰戦争が始まり、西郷家の次男・西郷吉二郎が新潟で戦死した。36歳。

明治元年11月、西郷隆盛は鹿児島に戻ったが、日当山温泉に滞在し自宅には帰っていない。

西郷隆盛は箱館戦争の応援の為、北海道へ向かったが、既に戦争は終わって鹿児島に戻る。
このとき、武村の屋敷690坪を購入し、西郷家は明治2年7月8日、武町に転居した。

西郷屋敷跡(武町)

西郷隆盛は、暇さえあれば読書をしていたことを裏付けるかのように、武町の屋敷には1300冊以上の本があったと言う。
そして、奄美大島から愛加那の子・菊次郎(8歳)を引き取っている。

明治3年3月18日、次男・西郷午次郎(ごじろう)が生まれている。
明治6年10月2日には、三男・西郷酉三(ゆうぞう)が生まれたが、寅太郎は寅年、午次郎は午(うま)年、酉三は酉(とり)年生まれと言うことになっている。

明治6年11月10日、征韓論(朝鮮使節派遣問題)で敗れた西郷隆盛が下野して鹿児島に帰ったが、来客を避けるためか屋敷にはほとんど寄りつかず、日当山温泉などで湯治した。

明治7年~8年頃、愛加那の娘・菊草(12歳)を奄美大島から西郷家に引き取った

明治8年10月には、日当山温泉に西郷家の家族で約3週間逗留。
このとき、西郷隆盛は47歳、糸子は32歳、西郷寅太郎9歳、西郷午次郎5歳、西郷酉三2歳、菊草12歳。
西郷吉二郎の子・美津12歳、隆準11歳。
西郷糸子の母・岩山栄子(エイ)51歳、糸子の弟・岩山直方の妻トク19歳、その子・長彦(おさひこ)2歳などが一緒に滞在した。

明治10年2月17日、西郷隆盛は、和服に袴姿で西郷家を出ると、私学校にて陸軍大将の軍服に着替え、大雪の中を東京に向け出発した。

私学校跡

2月27日、西郷の末弟・西郷小兵衛が熊本にて戦死。29歳。

官軍(政府軍)が鹿児島に上陸したため、武村の西郷家は永吉村坊野まで約20km、女中ヨシのために西郷隆盛が建てた家に避難した。
更に西別府村の小さな農事小屋にて隠れる。

9月14日、西郷隆盛が城山の洞窟に籠もっていることを知り、糸子は新しい着物と帯を永田熊吉に届けさせた。

西郷洞窟

9月24日朝、西郷隆盛が岩崎谷で自刃。享年51(満49歳没)。
この悲しい知らせは、翌日にはイト子(34歳)にも知らされた。

武町の屋敷も西南戦争で焼け、政府に反旗を翻したと言う事で、しばらく西郷家はなりを潜めて生活したと言う。
しかし、明治13年には、西郷従道が武町の屋敷を再建していた。
そして、やがて西郷隆盛の罪も許されるようになる。

明治16年、西郷七回忌のあとには、明治天皇から、西郷寅太郎(17歳)にドイツ留学の内旨が下った。
留学に際して、勝海舟は、徳川家から借金をして、餞別350円(現在の価値で500万円)を渡している。
また、明治17年には西郷菊次郎(23歳)が外務省入省となる。

明治22年3月20日、鹿児島市加治屋町の西郷生家跡に「西郷隆盛君誕生之地」の碑が建立された。

西郷隆盛誕生地碑

明治29年5月、西郷寅太郎と園田信子の結婚式に出席するため、糸子(53歳)は上京した。
このとき、そのまま鹿児島を引き払い、東京の西郷寅太郎邸に身を寄せている。

明治31年12月18日、上野・西郷銅像の除幕式に西郷イト子も出席。
「んだもしたん。やどんしは、こげな人じゃなかったこてえ」と言った逸話があるが、これは「顔」の事ではなく「浴衣で散歩はしなかった」からとされる。

大正11年6月3日、西郷糸子は79歳で亡くなった。
墓は東京の青山霊園にある。

西郷武屋敷跡

西郷隆盛が、函館戦争(向かった途中で戦争が終わった為、戦闘には加わっていない)から鹿児島に戻った際に、屋敷の土地を購入した場所が武町の「西郷武屋敷跡」(武町屋敷跡)となる。

西郷屋敷跡

特に、征韓論で敗れて西郷隆盛が鹿児島に戻ってから4年間、ここ西郷屋敷にてゆうゆう自適な生活を送った。

建物は縁が高い御殿造りになっていて、部屋数も多かったと言う。
書を読み畑を耕すと言う、まさに晴耕雨読だったようで、下記のように井戸も現存しており「南洲翁使用の井戸」と名付けられている。

西郷屋敷跡

屋敷に沖永良部島で知り合った川口雪篷を同居させ、近くの子弟の教育にもあたらせている。
この川口雪篷は、73歳で亡くなるまでずっとこの武町の屋敷に居候していた。
下記は、徳の交わり像。

徳の交わり像

庄内藩の家老だった菅実秀が訪ねてきた際の様子で、西郷隆盛が亡くなった後、菅実秀は『南洲翁遺訓』を出版している。
庭には大きな松の木があり、訪問する人の目印になったいたと言う。

西郷武屋敷跡(西郷公園)へのアクセス・行き方だが、近くには九州新幹線の高架橋があり、JR鹿児島中央駅からだと歩いて6分(600m)ほどの場所となる。

駐車場は無いので、クルマの場合には近隣のコインパーキング利用となる。
このページ最後にご紹介しているオリジナルGoogleマップの方で、駐車場はご参考願いたい。

南洲野屋敷跡

西南戦争で政府軍が鹿児島市内に入ったため、西郷家の家族が逃れて生活したのが、この西別府村の南洲野屋敷となる。

南洲野屋敷跡

もともと、西郷隆盛がまだ青年の頃、貧しい家計を助けるために、開墾してた農地だった場所で、6畳、3畳、4畳、2畳(いろり部屋)で構成された「田の字形」の農事小屋があったと言う。

南洲野屋敷跡

鹿児島のに戻り武町の屋敷に入った西郷隆盛は、面会者を避けるため温泉に行っていただけでなく、ここの南洲野屋敷跡もよく利用していたと言う。

南洲野屋敷跡

明治10年の西南の役の際には、西郷家の家族11人がここに避難して生活した。
この屋敷跡にある山モモや大名竹は、西郷隆盛が植えたともいわれている

さて、西郷南洲野屋敷の跡がある場所は、サッカーの名門とも言われる鹿児島実業高校の北側にある。
下記のポイント地点が、西郷南洲野屋敷がある山への入口となる。

地図は縮尺を変えてご覧頂きたい。
なお「詳細」と大きくしてみると、ヤフーの仕様でポイント地点がずれてしまうため、大きな地図にはしないでご確認願いたい。

公共交通機関の場合、JR鹿児島中央駅・東22番乗り場から南国交通バスとなり、約30分で終点の文化工芸村バス停下車となる。
ただし、終点の文化工芸村まで行くバスは1日1本だけでして、大半が15系統・大峰団地車庫までしか行かない。
そのため、鹿実高校前バス停で下車して、徒歩(3分)で向かうのが無難。
バスの運行に関しては、鹿児島実業高校サイトの案内がわかりやすいので、リンクしておく。

鹿児島実業高校サイトのアクセス案内

そのバス停がある場所は、文化工芸村の無料駐車場となっており、駐車利用ができる。
駐車場情報などに関しては、ページ下部にあるオリジナルGoogleマップの方で参考にして頂きたい。



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なお、この駐車場からも西郷南洲野屋敷へと繋がる「散策路」がある。
ただし、駐車場から山に入って行く散策コースで行くと、かつて山城や砦だったのでは?と思うくらい、階段を登ったり降りたりの繰り返しとなる。
展望台と言う名の最長部もあるが、冬でも木々が茂っていてとても展望が良いとは言えなかった。
上記の地図で示した地点、道路から入って行く場所(下記写真)から入って行くと、高低差はほとんどない。

西郷南洲野屋敷の入口

駐車場に止めても歩いて戻って、上記から入った方が無難である。
また、南洲野屋敷跡に限らず、鹿児島のこのような山の中は、とてもジメジメしており、コケがあると滑りやすい。
更に夏場は蚊の対策が必要となるだろう。

下記はオリジナルのGoogleマップとなっているので、スマホのブラウザにURLを移したりしてご活用頂けると幸いである。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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