西郷小兵衛の解説 高瀬の戦いにて銃弾に倒れた西郷隆盛の末弟

西郷小兵衛



スポンサーリンク


西郷小兵衛(さいごう-こへえ)は、薩摩藩士・西郷吉兵衛の4男として1847年10月11日に生まれました。幼名は彦吉です。
母は母は満佐(椎原国紀の娘・まさ)で、兄に西郷吉之助(西郷隆盛)、西郷吉二郎西郷従道がいます。
長兄の西郷隆盛との年の差は19歳で、兄からとても可愛がられたと言います。
正式な名前は西郷隆武です。

西郷小兵衛の妻は有馬糺右衛門の娘(大山巌の姪)・松子ですが、最初は「ます」と言いました。
しかし、兄・西郷吉二郎の妻と同じ名前だった為、マツに改名したようです。


スポンサーリンク


人格沈重にして思慮深い人物であったとされ、16歳のとき御代官所勤務となりましたが、兄・西郷隆盛の罪により勤方差控となったようです。

1868年、西郷小兵衛は戊辰戦争では八幡の戦いにて初陣を果たしています。
その後は一番隊として江戸城にも進軍し陸奥・白河など東北での諸戦でも戦い、明治2年(1869年)2月29日には分隊長となりました。
明治新政府には出仕しませんでしたが、明治2年京都の春日潜庵に入門し、明治6年にはアメリカに留学。
日本に戻ると加世田郷(南さつま市)副戸長となり、西郷隆盛が下野すると兄に従いました。

そして、明治10年(1877年)、西南戦争に加わると、薩軍第一大隊第一小隊長を務めました。
1877年2月27日、肥後の高瀬河南(熊本県玉名市)での高瀬の戦いにて、旗を持って川岸に立っていたところを対岸の官軍より銃弾を左胸部に受け戦死しています。享年31。

この知らせを受けた西郷隆盛は号泣したと伝わります。

倒れた小兵衛を担ぎ出すため、近くの橋本家から雨戸を一枚貰い受けたと言います。
その橋本家には、小兵衛夫人の松子からの礼状が6通現存すると言います。
そして、薩摩三番大隊一番小隊長となっていた(へんみ-じゅうろうた)が、西郷小兵衛の遺髪を鹿児島の西郷家へ届けています。
この時、西郷隆盛の夫人・西郷糸子より、小兵衛の袴下が形見として、辺見十郎太に与えたと言われています。

妻の西郷松子は明治29年に亡くなりました。



スポンサーリンク


最近の研究では、戦死した西郷小兵衛の遺体は、熊本県熊本市本山にある香福寺(こうふくじ)に仮埋葬された事を示す史料が発見されています。
伝承によると、兄の西郷隆盛が自ら菊池川の下流を渡って遺体を連れ帰ったとも言います。
西郷隆盛の妹・琴の四男である市来政方が改葬したようで、現在は、鹿児島市の南洲墓地にて西郷隆盛らと共に葬られています。

太平洋戦争の空襲で焼けた鹿児島市立教育参考館には西郷小兵衛の写真が所蔵されていました。

<西郷どんの家族>

西郷龍右衛門(西郷隆充)~西郷隆盛のお爺さん
西郷吉兵衛と西郷満佐子とは~西郷隆盛の父と母と使用人の熊吉も
西郷琴とは~西郷隆盛の妹で西郷家の長女である西郷コト・市来琴の生涯
西郷菊次郎~西南戦争にて右足負傷で切断するも京都市長などを歴任
西郷吉二郎~西郷隆盛の弟として戊辰戦争に赴くも戦死する
西郷従道~ロシアから日本を守った影の立役者(西郷隆盛の弟)
西郷隆盛の家族や両親兄弟など「西郷家」の一覧リスト
伴兼之と榊原正治(榊原政治・榊政利)の西郷隆盛への思いと鱸成信
伊集院須賀と伊集院兼善・伊集院兼寛とは~西郷隆盛最初の妻である須賀はどうして離婚したの?
西郷糸子とは~西郷隆盛3番目の妻の生涯~武町屋敷跡と南洲野屋敷跡
南洲神社と南州墓地~西郷隆盛の墓など幕末の志士が眠る墓所【鹿児島観光】



スポンサーリンク


高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

この著者の最新の記事

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。


スポンサーリンク


Twitterfollow

共有御礼申しあげます



スポンサーリンク
ページ上部へ戻る