咸臨丸とは~初めてのアメリカ横断と北海道木古内での最後

咸臨丸



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幕末の函館戦争北海道・木古内のサセキ岬で沈没した咸臨丸(かんりんまる)に関してです。

咸臨丸は、江戸幕府がオランダに10万ドルにて発注した蒸気コルベット船で、1855年7月にオランダのキンデルダイクにあるフォップ・スミット造船所で建造されました。
原名はヤパン号と言いました。

そして、ロッテルダム近くのフェイノールトにあったオランダ蒸気船会社NSM社にて蒸気機関が搭載され、1857年4月に完成しています。
日本が初めて海外に発注した船舶でした。


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その後、試験のあと8月にカッテンディーケ中佐以下オランダ海軍によって日本の長崎に送られ、長崎海軍伝習所にて練習艦になっています。

長崎海軍伝習所

洋式のスクリュー(木造スクリュー)を装備した船舶としては日本初の軍艦です。

1589年に長崎の伝習所が閉鎖されると、江戸の軍艦操練所に引き継がれています。

1860年に、アメリカ軍艦ポーハタン号が日米修好通商条約の批准書を交換するため、日本からアメリカに向かいます。
このとき、浦賀では4日前に、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟と軍艦奉行・木村摂津守、そして通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)ら98名の日本人が咸臨丸にてアメリカへ向かいました。
水夫の主な出身地は瀬戸内海の塩飽諸島や長崎で、幕府の船としては初めてアメリカへの横断となり、無事にポーハタン号より先にサンフランシスコに入港しています。
福澤諭吉らも乗船していたとのことですが、日本人が遠洋航海するのは技術力も乏しかったことから、ジョン・ブルック大尉など、アメリカ海軍の軍人や医師11名の助けも得て、37日間で太平洋横断したと言います。
なお、日本人3名がサンフランシスコで病死・埋葬されたと言うのでやはり過酷な航海だったのでしょう。

ちなみに、アメリカ海軍のポーハタン号は、全長が77.32m、幅14mに対して、咸臨丸は全長48.8m、幅8.74mですので、一回りも、ふたまわりも小さかったことが分かります。
メーア・アイランド海軍造船所にて無償で修理されたあと、帰りはほぼ日本人だけの航海で、ハワイ・ホノルルに寄港してから、浦賀に戻りました。

1861年(文久元年)には、外国奉行・小栗豊前守が咸臨丸でロシアに赴いています。
また、1862年には、小野友五郎が艦長を務めた咸臨丸が外国奉行・水野忠徳を団長とする調査団を乗せて小笠原諸島に派遣されます。
父島・母島で詳しい探検・測量を行って、徳川幕府は諸外国に、小笠原諸島の日本領有権を通告しました。

なお、船体は酷使されたようで、蒸気機関の故障が頻発して、1866年に蒸気機関を撤去したため、それ以降は、3本マストの帆船として使用されています。
実質的には輸送艦の役目となった模様です。

咸臨丸

そして、1868年に、戊辰戦争が勃発します。
この時、咸臨丸は江戸の品川沖に停泊していましたが、江戸城が開城したあと、新政府が旧幕府艦隊の引き渡しを要求します。
しかし、榎本武揚は徹底抗戦を主張し、人見勝太郎や伊庭八郎らを乗せて、悪天候を理由に艦隊8隻で品川沖から安房・館山へ脱走しました。
勝海舟の説得を受けて、富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸の4隻は新政府に渡しますが、抗戦派の旧幕臣ととも旧幕府艦隊を率いて、奥羽越列藩同盟の支援を行うため、仙台へ出航しました。
開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦です。

しかし、銚子沖で暴風雨にあって観音崎で一時座礁し、破損した咸臨丸は榎本艦隊とはぐれ、伊豆の下田港に漂着します。
そして、救助に来た蟠竜丸と共に清水港に入って修理を行いますが、新政府の艦隊がやってきて交戦となり、船員全員が戦死して敗北しました。
船員の遺体は、清水次郎長が収容して埋葬していますが「死者に官軍も賊軍もない」として、新政府軍から辞めるように言われても丁重に弔ったと言います。

榎本武揚が黒田清隆ら新政府軍に降伏した2年後の1871年、明治政府に摂取されていた咸臨丸は、開拓使を寒風沢から乗せて北海道の小樽に向かい出航します。
片倉景綱(片倉小十郎)から続く白石城主だった片倉家の旧臣約400名を乗せていたとの事ですが、函館に寄った3日後、津軽海峡にて暴風雨に遭遇してサラキ岬で破船しました。
乗員らは全員無事救助されましたが、咸臨丸は1871年9月20日、沈没しています。

1984年(昭和59年)に、サラキ岬沖にて、鉄製の朽ちた咸臨丸の錨が発見されニュースにもなりました。

須賀市では「咸臨丸フェスティバル」、北海道木古内町では「きこない咸臨丸まつり」が毎年開催されています。

サラキ岬

サラキ岬は現在公園になっており、咸臨丸モニュメントがあります。

サラキ岬の咸臨丸

下記は咸臨丸終焉の碑です。

咸臨丸終焉の碑

サラキ岬への行き方ですが、JR木古内駅からタクシーで約10分となります。
クルマの場合には、とても大きな無料駐車場がありますが、国道228号から入る際には速度も出ていますので、早めにウインカーを出しましょう。

詳しい場所は当方オリジナルのGoogleマップにてしるししていますので、カーナビ代わりにご活用いただければ幸いです。

(参考)咸臨丸子孫の会

榎本武揚 蝦夷共和国総裁として新政府軍と果敢に戦った戊辰戦争
開陽丸とは~江戸幕府のオランダ製最新鋭軍艦 江差で喪失した理由
ジョン万次郎 中濱萬次郎・中浜万次郎 土佐の漁師 漂流しアメリカに渡る
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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