二宮尊徳はプライベートでも偉大だった!? 私人としての二宮金次郎とは


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二宮尊徳(二宮金次郎)は、江戸時代後期に関東を中心に農民らを救済し、その名を馳せた農村改革者です。
その功績は、160年以上経った現代においても、多くの皆様が知るところで、薪を背負いながら、歩いていても本を読んで勉強している、二宮尊徳の銅像は、各地の小学校などで見受けられます。

そんな日本を代表する偉人として名高い二宮金次郎(にのみや-きんじろう)ですが、実は私生活においてはバツイチでした。
それも、妻から「離縁」を求められてのことでした。
数多くの農村を救済してきた金次郎の家庭生活は、どのようなものだったのでしょうか?
幼少期から結婚に至るまでのいきさつを紹介しながら、その核心に迫りたいと思います。

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二宮尊徳(にのみや-そんとく)/二宮金次郎は、1787年(天明7年)7月23日に、現在の神奈川県小田原市にある栢山の農家・二宮家の長男として生まれました。
二宮家は、金次郎の祖父の代に田畑を2町(約2万㎡)まで拡大し、比較的裕福な農家でした。
また、父親は教養が深く、母親も読み書きが出来たため、農民でありながら金次郎は質の良い教育を受けていたようです。

しかし、1791年、4歳の頃、暴風雨が関東地方を襲い酒匂川が洪水で決壊します。
二宮家の田畑は、約半分が土砂に沈み、家も流出しました。
それ以降、徐々に二宮家は家計も苦しくなり、幼少だった金次郎も早起きして久野山にて薪をとり、夜には草鞋作りをして、一家の生活費を稼ぐ生活を送ることになります。

それから数年の間に両親が病死したこともあり、一家は離散することになり、二宮金次郎は叔父・万兵衛の家に預けられることになります。
そこで、一日でも早く生家を再興するため、二宮尊徳は朝・昼は畑仕事、夜は勉学と、自分を高めるためにストイックな生活を送るようになります。
また、荒地を開墾して菜種を栽培したり、廃田を再利用して稲を育てたりと、様々な生産性向上の経験も積んでいきました。

そして、金次郎は万兵衛家から独立を果たしますが、わずか17歳の時です。
以後、名主・岡部家や、親戚の家を渡り歩きましたが、1806年には、生家の再興を開始して収入の増加を図り、小田原城下では岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えました。

更には小田原藩家老で1200石の服部十郎兵衛の依頼にて、服部家の家政を取り締まる責任者を任されます。
当時の服部家は豪奢な生活を送り続け財政は赤字で、自分たちでは良い打開策が見つからないという状態でした。
そこで、噂を聞いた金次郎に白羽の矢が立てられたのでした。

実は、金次郎は親戚の家を出た後、効率の良い生活方法だけでなく、農作物の増産などで得た資金をもとに基金を創設するなどし、離散した生家の再興に成功。
その手腕が評価されての抜擢だったのです。

釜の火の起こし方や食事の内容など、金次郎は細部にわたる節約術を実施し、5年程で服部家の借金1000両を全て完済。
それどころか、余剰金300両と黒字に転じさせるという大きな成果を上げました。

ちなみに、ちょうど二宮金次郎(二宮尊徳)が服部家の財政再建に取り組んでいる頃、小田原藩主・大久保忠真が老中に抜擢されています。
大久保忠真は、江戸城へ向かう途中、酒匂川で孝行者・働き者13人の表彰を行いました。
その13人の中には金次郎の名前もありました。
表彰文中には「その身は勿論、村為にも成り」という忠真の言葉があり、金次郎に衝撃を与えます。

これまで生家再興のために尽力してきたが、いつの間にか周りの人の役にも立っていたのか、と・・。
そして、より一層、仕事にも力を注いでいく決意をしたのでした。

家政を整えた後の金次郎は服部家を辞し、知人の妹であった、中島きのと結婚します。
しばらくは、二人で農作業を行うなど円満な家庭生活を送っていました。
しかし、再び服部家に奉公することになると、幼少の頃に養われた真面目さや勤勉さのか、先の忠真の言葉に触発されたためか、ついには家に帰ることもなく、他家のために仕事にいそしむようになります。

寂しく、つらい思いをしたのは、妻・二宮きのでした。
他家の仕事に夢中になり、家庭を顧みない二宮金次郎に代わって、家事から畑仕事まで、全部一人で背負うことになったのです。
そんな辛い生活に、きのは次第に疑問を持つようになりました。
さらに一人息子が生後2週間でこの世を去ったことがきっかけで、我慢は限界に達し、ついにきのは離縁を申し立てます。
金次郎は「せめて木綿のなる頃まではいてはどうか」と提案しますが、きのの心は変わりません。
そして、家を出ていく日、金次郎は後悔していたのか、見送りに出ました。
もし、きのが振り返ったら、復縁を申し出ようと考えていましたが、きのは一度も振り返らなかったため、金次郎は遠くなるきのの後ろ姿をずっと眺めていたとされます。

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後年、二宮金次郎は藩主・大久保忠真の命で、大久保家の分家であった下野国桜町領(栃木県二宮町、真岡市の一部)の農村改革を指導することになります。
この時、なみと言う娘と、二度目の結婚をしていましたが、村の見回りを行う際は家族全員を同伴させることもありました。
また、今で言うピクニックや買い物なども行い、家族サービスを怠らないようにしていたと言われています。

きのと別れた時、金次郎は「忠勤を尽くして、その弊あることを知らざれば忠臣に至らず。忠勤を尽くして、その弊あるを知れば必ず忠臣に至る」という言葉を残しています。

これは働きすぎの代償を知らなければ、本当の働き者ではないという意味です。

また、家族のことも「家をば実に船と心得べし、これを船とする時は主人が船頭なり、一家の者は皆乗り合いなり、世の中は大海なり」と言い表しています。
二度目の結婚生活は、同じ轍を踏まないように配慮し、良き夫として、また優秀な船頭として、充実した家庭生活を送ったのでした。

(寄稿)ヒラヤマ

二宮尊徳の生家を訪ねて~二宮尊徳とは?

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