アーネスト・サトウ 日本が大好きで通訳官になったイギリス人


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アーネスト・サトウは、ロンドンで生まれたイギリス人ですが、父はドイツ人で母がイギリス人と言う環境でした。

高校に進学した際に、ローレンス・オリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」と言うイギリス貴族の日本を紹介する書物を読みます。

なんでも、日本では男女問わず子供でも読み書きができて、簡単な自国の歴史を語る事ができる」などと紹介されていたようで、日本に憧れるようになり、その後「ベーリー日本遠征記」を読むと拍車が掛かり、1861年にイギリス外務省へ通訳生として入省します。
そして、駐日公使ラザフォード・オールコックの助言も受けて、清の北京にて漢字の学習に従事しました。

そして、1862年9月8日(文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として、憧れの日本に渡り横浜に住みます。
アメリカ人のブラウン宣教師や、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学び、薩英戦争でも通話として活躍しました。
捕虜となった五代友厚らと戦後処理の交渉なども行ったとされます。
その後、イギリスが薩摩藩と接近したため、西郷隆盛大久保利通小松帯刀らとの交流もあり、更に長州藩ともイギリスは仲良くなりました。

1864年7月、長州藩の伊藤博文井上馨(井上聞多)が、急きょヨーロッパ留学から横浜に戻った際には、彼らをアーネスト・サトウが長州まで送り届けています。
この時から、アーネスト・サトウと伊藤博文の文通は始まりました。

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1865年4月には、通話官に昇進し、伊藤博文や井上馨との文通も頻繁となり、お互いに情報交換をします。
そして、日本語に堪能なイギリス人として、アーネスト・サトウの名が知られました。

ちなみに「サトウ」という姓は、親が日本人であったと言う事ではありません。
たまたま、父の姓名が「サトウ」と発音したもので、日本の佐藤姓とは関係はありませんでしたが、親日家のサトウは漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗ったと言います。
このように、日本人も親しみを得やすい呼び名であったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言えるでしょう。

1868年1月には、通訳として最高位の日本語書記官となり、大坂城に入った徳川慶喜と駐日公使ハリー・パークスの謁見でも通訳を務めています。

桂小五郎品川弥二郎・大久保利通・後藤象二郎・西郷隆盛らとも交流し、外交団の通訳として明治天皇にも謁見しています。

休暇でイギリス(大英帝国)に帰国しても、またすぐに日本に戻り、公使らと日本各地を旅行しただけでなく、日本と外国との貴重な架け橋の役割も果たしました。
日本各地を巡っては、イギリスに報告する役割も担っていましたが、登山が好きだったようです。
そして、登った山々は日本アルプスと言う報告も行っています。

明治4年頃には、日本人女性の武田兼と結婚(事実婚)し、1880年(明治13年)に長男・栄太郎、1883年(明治16年)に次男・久吉(のちの武田久吉)が生まれています。

明治16年からは、シャム、ウルグアイ、モロッコの駐在領事を歴任しますが、明治28年にアーネスト・サトウは駐日特命全権公使として再び日本に戻っています。
日光にはアーネスト・サトウの別荘もあったそうで、現在、復元もされています。

そして、日本の治外法権が1899年(明治32年)に撤廃されるのにも立ち会い、その後は、駐清公使となりました。

北京から日本に立ち寄ったあとイギリスに帰国すると、引退して余生を送ったと言います。



1929年(昭和4年)86歳で生涯を閉じました。

来日3年目の22歳のときから作り始めた英和辞典の他、日本での出来事などを記した約500ページに渡る日記をアーネスト・サトウは残しており、研究が進められています。

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