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梶原平馬(かじわらへいま)は、会津藩の名門・内藤家の内藤信順(内藤介右衛門信順)の次男として内藤悌彦(内藤平馬)として1842年に生まれた。
平馬の実家になる内藤家は、戦国時代には武田信玄の重臣・内藤昌豊の流れをくむ名門で、家禄2200石と会津藩内ではかなりの高禄であった。
実父・内藤信順は会津藩の家老を務めたが、幕末には既に隠居しており、平馬の兄・内藤信節が家督を継ぎ家老職にあった。
内藤悌彦(内藤平馬)は、次男坊であった為、出世の道はない。
その為か、跡継ぎがいなかった梶原家(1000石)を継ぐべく、梶原景保の養子となり、梶原景武を名乗った。
梶原家は、鎌倉幕府の御家人で有名な梶原景時を先祖に持つ名門だ。
1861年頃、山川太蔵(山川浩)の姉になる、山川二葉と梶原景武(梶原平馬)は結婚した。
1862年、会津藩主・松平容保が京都守護職として上洛する際、20歳になっていた梶原景武(梶原平馬)は藩主の側近として上洛。
1865年、江戸常詰の若年寄に任じられると、この頃から、梶原平馬を名乗るようになった。
翌年、1866年、僅か24歳で家老職に昇進し、妻の梶原二葉も京に上っており、11月16日には梶原二葉との間に、長男・梶原景清が誕生している。
1867年1月13日には、会津藩士野口富蔵の紹介で、サーネスト・サトウに会い、サトウの紹介でバジリスク号を見学。
5月20日、平馬、上田学大輔・内藤介右衛門・諏訪伊助と共に、賀陽宮を伺候。
1867年6月、兄・内藤介右衛門と共に、松平容保の会津への一時帰国を、江戸幕府の朝廷との交渉役・永井尚志に願い出ている。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発した際には、徳川幕府と今後の対策を講じる為、梶原平馬は江戸に滞在していた。
すぐさま、大阪へ向かおうとするが、敗戦の報が入り断念している。
1月4日、会津藩士・安部井政治と堀藤左衛門へ、前橋藩へ書状を持たせ、梶原平馬は前橋藩の意向を尋ねている。
1月20日、将軍・徳川慶喜が鳥羽伏見の負傷者が収容されている三田会津藩下屋敷を見舞いに訪れた際、梶原平馬らが出迎えた。
2月16日、鈴木多門らと共に横浜に赴き、エドワード・スネルから小銃800挺、ならびに武器弾薬を買い付けすることに成功。幕府勘定奉行より借金していた。
2月18日、松平春嶽へ朝廷への歎願書を出すことになり、田中・神保・梶原・上田・内藤・諏訪の連名で提出している。
3月4日、会津藩士の江戸から撤退し、会津帰国となったが、梶原平馬など30名は武器弾薬を購入する為、そのまま江戸滞在を続けた。
4月2日、梶原平馬は、買い付けた武器弾薬を積んで、長岡藩家老・河井継之助と共に亜米利加船で江戸を出港。函館を経由して、新潟港に上陸し、会津に帰国した。
4月18日、米沢藩・二本松藩・仙台藩の使者と梶原平馬・内藤介右衛門・一瀬要人が謝罪降伏条件について会談。
4月19日、米沢藩の使者と開城について梶原平馬・内藤信節・山川大蔵・手代木・伊東らが会談している。
4月21日、薩摩屋某宅にて米沢藩の使者と梶原・内藤・一瀬・山川・倉沢・山田らが会談。松平容保父子の謹慎と削封の結論を出している。
4月22日、梶原・伊東・河原・土屋らは謝罪歎願の為、米沢を訪れ、竹股・木滑・片山らと会談。
同日、米沢に滞在して上山藩士・増戸武平を梶原平馬は訪れ、翌日には、梶原平馬の宿舎を増戸武平が訪れている。
4月29日、梶原平馬らは七ヶ宿関村で米沢藩の木滑、仙台藩の坂、但木、真田らと会談。閏4月1日も仙台・米沢の使者と会談した。
閏4月2日、石筵口で会津藩兵と仙台藩兵とが交戦し、これを知った昔村に滞在中の梶原平馬は、会津若松へ急いだ。
閏4月12日、西郷頼母、梶原平馬、一之瀬要人の連名での哀訴状と共に、奥羽列藩の歎願書を伊達慶邦・上杉斉憲が岩沼で、新政府軍の九条総督に提出。
閏4月15日、湯原の梶原平馬、仙台藩士・横田官平の報告により、歎願書の提出を知り、米沢藩士・千坂太郎左衛門と七ヶ宿で会談。なお、仙台藩・老坂英力は梶原平馬に書簡を送り、新政府軍の白河城進攻を警告し、藩兵の退去を進言している。
一方、実の弟・梶原信臣は武川兵部と称し、上野戦争にて、彰義隊信意隊長となり奮戦するも捕えられ、小伝馬町の獄中にて刑死している。
6月4日、新潟の会津藩・米沢藩の合同訓練を行ない、梶原平馬・スネル兄弟などが見学。
6月6日、手代木直右衛門、梶原平馬の同道を願い出て、米沢の色部長門と会談。同日、梶原平馬は色部長門へ手紙を出している。
6月8日、会津藩士・平尾豊之助は新潟へ到着し、梶原平馬・手代木と軍議。新発田藩討伐は反対され、仙台藩・米沢藩も反対する。
6月9日、梶原平馬は色部長門にスネルの消息を伝えた。
7月29日、新潟港が新政府軍の手に落ちた事により奥羽列藩同盟軍の海上補給路が絶たれた事で、仙台藩奉行邸にて会議。会津藩からは梶原・手代木・神尾・唐沢らが参加、米沢藩は色部・佐藤・黒井など、仙台藩は葦名・牧野・玉虫・富田・横尾・星など、二本松藩は奥田・山田、村上藩は近藤・平井・鈴木などが会議に参加した。
また、長岡城と二本松城が落城し、梶原平馬は会津に戻った。
梶原平馬は、兄ヘンリーを軍事顧問として会津に迎え、松平容保はヘンリーに平松武兵衛の名前と屋敷を与え、女中として おけい が仕えた。
上記のように、梶原平馬は、会津藩の危機の為、各地を奔走したが、いよいよ新政府軍が会津に迫ってきた。
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8月22日、母成峠を新政府軍が突破。梶原平馬、萱野権兵衛、佐川官兵衛、神保内蔵助、田中土佐らは、会津防衛の体制を定めるが、23日には新政府軍が会津若松城下になだれこんだ。
梶原平馬の妻・梶原二葉(山川大蔵の姉25歳)は、子の梶原景清(3歳)を伴って入城。山川大蔵の妻・山川トセ(19歳)らと共に負傷者の看護、炊き出し、洗濯、消火などを行った。
会津若松城下に新政府軍が迫った際、実家である内藤信順らは会津若松城に入城することができず、親類である若年寄・上田八郎右衛門の一家と菩提所である泰雲寺に避難したと言う。
敵が迫るとの知らせを受けると、避難していた内藤一族は上田家とともに自刃して果てた。
内藤家は内藤信順(67歳)、妻(58歳)、娘4人(23歳、19歳、17歳、不明)、内藤信節の妻(23歳)、孫2人(6歳、3歳)。上田家は上田八郎右衛門の父である上田伊閑(61歳)、妻(58歳)、妹(56歳)、娘(30歳)、孫(9歳)。
内藤家の家臣4人も自刃し、場を離れていた従僕は、あとを寺に頼み、主人一家の跡をおって自害した言う。
会津若松城籠城戦で松平容保・松平喜徳父子は、城内で一番防御に適していた鉄門(くろがねもん)に仮御座所を設置し、陣頭指揮を取ったが、そこに、梶原平馬も従った。
松平容保は、降伏を唱える家老・西郷頼母に「越後口から引揚げて来る萱野・上田両家老に会い、城に入らずそのまま防戦するように伝えよ」という、実質、追放処置を取ったが、梶原平馬は砲兵隊頭・大沼城之助と遊撃寄合組隊組頭・芦沢生太郎の両名に対し、西郷頼母の後を追って討ち取るように命じたとされる。
主戦を唱える梶原平馬は恭順論を唱える西郷頼母を、裏切者として亡き者にしようとしたのだが、大沼と芦沢の二人は命令を無視し、西郷頼母を見失ったとして帰城した。
8月26日、山川大蔵の彼岸獅子を模した入城後、防衛部署が更新され、梶原平馬は本丸にて政務をすることになった。内藤信節は三の丸、原田対馬は西出丸、倉沢平治右衛門は二ノ丸、佐川官兵衛は城外総督、山川太蔵は軍事総督になった。
9月3日夕刻、会津藩士・酒井寅之助の弟・酒井又兵衛が、多額の藩金を盗み天神橋口から脱走しようとして、三之丸の南門で捕えられた。梶原平馬は藩法に照らし、酒井又兵衛の身分を剥脱するとともに五軒町で首を刎ね、捕えられた現場にさらし首にしたと言う。
9月14日、新政府軍が総攻撃の砲撃を開始。山川トセは、砲弾にて体4箇所に傷を負い、その後死亡した。
9月19日、降伏する旨を土佐藩に伝える為の使者、鈴木為輔と川村三介の2人が任命され、松平容保に拝謁。梶原平馬は酒を授けた。
9月22日、降伏式が執り行われ、松平容保は藩士の歎願書に続いて、萱野権兵衛・梶原平馬・内藤・原田・山川太蔵・海老名・井深・田中・倉沢らの連名の歎願書が提出された。
なお、軍事奉行添役・秋月悌次郎、大目付・清水作右衛門、目付・野矢良助らが開城式に臨み、新政府軍の軍監・中村半次郎に諸藩老連署の書状を手渡した。
松平容保が江戸護送と決せられた際、梶原平馬は随行を命じられ、鳥取藩・池田慶徳邸に幽閉の身となった。
家老・萱野権兵衛に切腹の命が下されたとき、死の朝命を伝える役目を果たし、また松平容保の実子・松平容大に家名相続が許されるよう、旧会津総代として新政府に嘆願書を提出した。
梶原平馬は、松平容保らと供に江戸に連行され、鳥取藩池田慶徳邸にて謹慎。
謹慎が解かれると、会津へ帰国し滝沢村に滞在し、会津での藩士の斗南移住の準備に当たった。
旧会津藩士が斗南に移住すると、梶原平馬は上市川村に住んだ。
妻・梶原二葉は梶原平馬と離婚し、明治4年8月、弟・山川浩(山川大蔵)の一家と共に田部より東京に移住。子の梶原景清を海軍軍医学校に入れて、梶原の家名を継がせた。
山川二葉は、同明治10年、東京女子師範学校に就職。その後、勤続28年、高等官に任じ従五位に叙せられたが、梶原平馬のその後の消息は不明のままであった。
梶原平馬は、明治4年11月頃に青森県庁の庶務課長に就任したが、僅か2ヶ月程で退任。その後、梶原平馬の詳しい動向はわかっていない。
ただし、戊辰戦死七回忌の際、会津へ下向した松平容保公が江戸にもどる際、元家老・簗瀬三左衛門・諏訪伊助と共に、梶原平馬も見送ったとされる。
また、明治10年?又は明治11年?に、梶原平馬は水野テイ(水野貞)と再婚した。水野テイは江戸の生まれで、東京麹街女学校の教員などをしていたようだ。
その後、会津藩探索方だった大庭恭平と榎本艦隊で活躍した雑賀孫六郎の勧めもあり、梶原平馬と水野テイは明治14年に函館に渡ったようで、翌年には根室に移住。
水野テイは花咲尋常小学校で教師をし、梶原平馬は文房具屋を営んだとも伝わっている。
明治16年頃からは、根室県庁庶務課で勤務したようだ。
維新後、梶原平馬は長らく消息が不明になっていたが、1988年に内藤介右衛門のお孫さんに当たる萱野恒雄氏が、根室で梶原平馬の墓を発見した事で、このように明治維新後の動向が少しわかってきている。
根室にて梶原平馬は47歳で死去。墓は根室の市営西浜町墓地にある。
(参考文献) 戊辰戦争百話・会津、梶原平馬関連年表
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