神保修理と神保雪子 (会津藩)


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 神保修理は、1834年、会津藩家老・神保内蔵助(神保内蔵助利孝)の長男として生まれた。母の名はトシ。
 神保家は1000石の上級藩士であり、神保内蔵助は200石を加増され1200石と会津藩の名門であった。

 幼いころから非凡の才を見せており、容姿は閑雅、その頭の良さから日新館では「秀才」と呼ばれていた。

 1862年、会津藩内の実力者・野村直臣の仲介で、軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子(17歳)と結婚。
 1862年、軍事奉行添役に就任か? 藩主・松平容保京都守護職就任に随行して、神保修理と父・神保内蔵助も御家老組陣将として上洛。1863年、父・神保内蔵助は家老に昇進している。
 神保修理は京都にて諸藩の動静に対して、伊藤博文大隈重信など、広く内外人と交流した。
 また、藩主・松平容保の命で、洋式の練兵などを勉強する為、京から長崎に向かった。

 1866年にも、神保修理は長崎に出向いて、外国事情を調べている。
 1867年、大政奉還によって江戸幕府は事実上崩壊。神保修理も長崎から急遽大阪に戻り、会津藩に合流した。

 長崎では偽名だった坂本龍馬や、伊藤博文とも会談したとも伝わり、西洋式の練兵技術や武器性能の知識も得た。
 坂本龍馬も、「長崎ニて会津の神保修理に面会。会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり」と神保修理を高く評価している

 鳥羽伏見の戦いでは、神保修理は会津軍の軍事奉行添役となり指揮したが、西洋式の練兵技術や武器などが非常に優れていることを長崎で知っていた神保修理は、朝敵となることを恐れた事もあり、将軍・徳川慶喜に対して恭順するように進言。
  これに、会津藩の佐川官兵衛ら主戦派の藩士たちは反発する。
 そして、将軍・徳川慶喜や松平容保が大阪から脱出したこともあり、旧幕府軍が大敗。
 神保修理が恭順を説いたせいだという意見や、他藩との交流があったため「長州藩と通じていたのではないか」という噂まで立ち、敗戦の責任が軍事奉行である神保修理に降りかかった。

 松平容保は、神保修理が会津に帰れば危害を加えられるであろうと憂い、神保修理を江戸城の和田倉上屋敷に幽閉。
 親交のあった幕臣の勝海舟が、神保修理の身を案じ、身柄をの幕府に引き渡すよう徳川慶喜を通じて画策したが成功せず、かえって主戦派の会津藩士は神保修理の処断を望み、急ぐ結果となった。
 会津藩の主戦派は神保修理を三田下屋敷に移送し、主命と偽って切腹を命じる。神保修理は松平容保に拝謁することも許されず「これが偽りの命だとわかっていても、従うのが臣というものだろう」と、1868年2月22日に自刃。享年34歳。

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 会津の妻・神保雪子は、神保修理の遺志を継ぎ、会津を戊辰の戦乱から救うべく恭順論を梶原平馬、原田種竜らに建言した。

 1868年8月23日、会津若松城に新政府軍が迫ると、神保雪子の実父・井上丘隅も幼少寄合組中隊頭として城下で戦ったが、敵の火力は強く会津が負けることを悟り自宅に戻る。
 すると、そこには自刃の準備を済ませた妻の井上トメ、長女の井上チカ、ら一家の姿があり、その中に神保家へ嫁に行ったはずの神保雪子もいたと言う。
 井上丘隅は雪子に「神保家へ嫁に行ったからには、神保家と運命を共にせよ」と説得し家から出して、その直後に井上丘隅は家族と共に自刃。
 神保雪子は嫁ぎ先へ戻ろうとしたが、城下は戦闘状態で戻ることができず、途中、中野竹子らと合流し、髪の毛を切り、男装して戦う婦女隊に加わり、行動を供にした。
 神保雪子は戦死したとも、捕縛された際に自刃したとも言われるが、詳細はわかっていない。
 神保雪子は大垣藩兵の捕虜となり、放免を主張した土佐藩士・吉松速之助の短刀を借りて自決したとする説もある。
 享年26歳。

 神保修理の父・神保内蔵助も、8月25日に、土屋一庵邸で家老の田中土佐と供に切腹している。神保内蔵助、享年52。

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ

 

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