2分でわかる「福地源一郎」の解説~優秀な通訳で新聞社の社長になった文豪

福地源一郎



福地源一郎とは

福地源一郎 (ふくち-げんいちろう)は、明治時代前期に代表的なジャーナリストとして知られます。
幕末の天保12年(1841年)、長崎の儒医である福地苟庵の子・福地桜痴(ふくち-おうち)として生まれました。
長崎では漢学や、通詞・名村八右衛門より蘭学も学びました。
安政4年(1857年)、長崎にいた海軍伝習生・矢田堀景蔵に従い、江戸に出たると森山栄之助から英語などを学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事をします。
それら語学力が認められて、万延元年(1860年)、江戸幕府の御家人となりました。



文久2年(1862年)12月、江戸幕府が遣欧使節(文久遣欧使節)を派遣すると、組頭・柴田剛中(柴田日向守)の通訳としてヨーロッパに渡り、ロシアとの国境線確定交渉などに寄与しました。
慶応元年(1865年)にも、江戸幕府の使節としてヨーロッパへ渡航し、フランス語を学んだほか、西洋社会を視察しています。
この時、ロンドンやパリで、新聞を見たほか、演劇や文学にも興味を持ったとされます。
帰国すると、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取に昇進し、旗本(蔵米150俵3人扶持)になりました。
<注釈> 御家人も武士ですが、御家人は将軍に拝謁できない身分で、旗本は将軍の前に出れる身分となります。

1867年10月、徳川慶喜が大政奉還すると、「徳川慶喜は大統領になって新政府の主導権を握るべき」との意見書を小栗忠順に提出しています。

1868年、西郷隆盛勝海舟の会談にて江戸城が無血開城すると、福地源一郎は江戸で「江湖新聞」を創刊しました。
そして、薩長の明治新政府を批判したことかせ、新聞は発禁となり、福地源一郎も逮捕されています。
しかし、才能を認めていた木戸孝允が仲介し、釈放されました。
徳川宗家が静岡に移住すると、自らも静岡に移りましたが、明治3年、渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合し、大蔵省に出仕しています。
そして、岩倉遣外使節団として岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らの欧米派遣が決定すると、書記官長・田辺太一の配下として、塩田三郎と福地源一郎が一等書記官としてアメリカに随行するなど、2度の洋行を経験しました。



明治7年(1874年)、大蔵省を辞めると政府系の「東京日日新聞」(日報社)に入社します。
特に、ペンネーム・福地桜痴(ふくち-おうち)の社説と、岸田吟香の雑報記事、看板となりました。

明治9年、社長になり、西南戦争では従軍記者としても戦場からレポートしています。

明治11年(1878年)、渋沢栄一らと東京商法会議所を設立し、下谷区から東京府会議員に当選し、議長にもなりました。

明治15年、丸山作楽、水野寅次郎らと立憲帝政党を立ち上げていますが、振るず、約1年6ヶ月で解散しています。
また、明治16年、政府が「官報」を創設したため、東京日日新聞は経営が悪化し。明治21年には引退しています。

その後、福地源一郎は、新しい演劇に取り組み、歌舞伎座の創設にも加わっています。
以後、新歌舞伎の脚本だけでなく、政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説など幅広い執筆活動を行いました。
明治27年(1894年)、渋沢栄一も「徳川慶喜公傅」の執筆を依頼しています。



明治37年、第9回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補すると最下位ながらも当選を果たしています。
明治39年(1906年)、議員在職中に死去。享年66。
葬儀は増上寺、墓所は谷中霊園になります。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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