岩瀬忠震 日本を開国へ導いた外国奉行

岩瀬忠震(いわせただなり)は設楽原を治める旗本・設楽貞丈の3男として1818年11月21日に生まれた。字は善鳴、通称は忠三郎・修理。岩瀬肥後守。

麻田藩主・青木一貫の曾孫、宇和島藩主・伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。
母は昌平坂学問所で有名な林述斎の娘・純。おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。

岩瀬忠正(800石)の娘と婚姻して養子となって、岩瀬家の家督を継ぎ、岩瀬忠震と称した。

1843年、昌平坂学問所の試験成績にて乙科及第。(成績評価は甲科・乙科・丙科とあった。)

1849年2月3日、部屋住のまま西の丸小姓組番士となり300俵を受け、徽典館の学頭として甲府に赴いたあと任期を終え、そして昌平坂学問所の教授となる。

1853年、ペリー提督が来航すると徳川幕府の老中首座・阿部正弘は、諸外国との対応に迫らた中、10月には徒頭になり1000石。
ペリーが再来日すると、1854年1月22日、岩瀬忠震は永井尚志大久保忠寛らと前後して幕府の目付に抜擢された。
積極的な開国論者として橋本左内徳川斉昭、藤田東湖とも交流し、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台築造などに尽力し、勝海舟ら有能な人材も登用した。

その後も外国奉行(外交官)となると、1855年2月7日、下田に来航したロシア・プチャーチンに対し、幕府全権として交渉に挑み、日露和親条約を締結。
1856年8月には下田奉行・井上清直らとハリスと折衝すると、部屋住みの身で大名格となり、井上清直と共に全権委員として日米修好通商条約の草案審議を行う。

老中・堀田正睦に従って上洛して、朝廷から条約調印の承認を得ようとしたが、孝明天皇は攘夷を迫り、勅許を得られずに江戸に戻った。

しかし、大老・井伊直弼の意向を踏まえて1858年、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結すると、井上清直と共に幕府を代表して署名。
この時ハリスは「井上、岩瀬とは綿密な議論となり、何度草案を書き直したか分からない。こうした全権を持つ日本は幸福である」と日記に記している。

その後、新設の外国奉行に昇進し、7月10日、日蘭修好通商条約、7月11日、日露修好通商条約、7月18日、日英修好通商条約、9月3日、日仏修好通商条約にもただ1人で参加して調印。
水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。

徳川幕府は条約で決められた神奈川ではなく、対岸の横浜を開港しようと考えたが、岩瀬忠震は条約で決まった内容通りにしないと信用を失うとして、この時、神奈川開港を主張している。

徳川13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では、徳川慶喜を支持する一橋派であったことから、対立した大老・井伊直弼か睨まれ、安政の大獄の際である、1858年9月5日、作事奉行に左遷された。
1859年8月27日には罷免されて蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園に籠ると書画生活に専念したと言う。

使節としてアメリカに赴くことを夢見ていた岩瀬忠震であったが、1861年、失意のうちに44歳で病死した。

墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。
横浜市と新城市に顕彰碑がある。

(参考) Wikipedia

 

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