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石谷因幡守・石谷穆清(いしがやあつきよ)は、幕末の江戸幕府旗本だが、生没年などは不明。
官位は因幡守、後に長門守となっている。
なお、江戸時代の初めに江戸北町奉行を務めた石谷貞清の子孫とされる。
1849年、堺奉行に就任すると、1852年5月19日には大坂西町奉行となって、1854年5月20日まで勤務した。
1855年8月9日には勘定奉行となったが、1858年に江戸北町奉行となる。
この時、大老・井伊直弼の安政の大獄であり、寺社奉行・松平宗秀、勘定奉行・池田頼方、大目付・久貝正典、目付・神保長興らと5人で最重要問題を審議する「五手掛」と呼ばれ、評定所にて関与した。
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五手掛による刑の宣告は、1859年8月27日、10月7日、10月27日の計3回で、合計69人を処断したとも。
切腹・安島帯刀(水戸藩家老)
死罪・茅根伊予之助(水戸藩奥祐筆頭取)、鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居役)、飯泉喜内(元土浦藩士)、橋本左内(越前藩士)、頼三樹三郎(儒者)、吉田松陰(長州藩士)
獄門・鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居助役)
上記はその処断された主な人物。
1860年の桜田門外の変以降も北町奉行を務めたが、石谷因幡守(石谷穆清)は1862年6月5日に一橋家家老となり、8月24日には講武所奉行として約1ヶ月間担当した。
のち、西丸留守居となるが、安政の大獄の処置を咎められて11月に免職。
元治2年(1865年)1月20日には再び講武所奉行となり、慶応2年(1866年)11月18日まで務めたが、その後の動向は不明。
(参考) Wikipedia
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