竹中重固【戊辰戦争と榎本艦隊で新政府軍に抵抗した竹中半兵衛の子孫】




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竹中春山(たけなか-しゅんざん)と言う幕末の人物をご紹介したいと存じます。

竹中重固(たけなか-しげかた)が本当の名前で、春山は号となりますが、この情報だけで私もピンと来たのですが、同様にお感じになられた方もいらっしゃるかと存じます。

そうです・・。

戦国時代豊臣秀吉の軍師を務めていた菩提山城主・竹中半兵衛(竹中重治)のご子孫さまです。


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しかも、この幕末の竹中重固(竹中春山)なる人物は、あの榎本武揚の「蝦夷共和国」に渡り、海陸裁判所頭取、すなわち最高裁の副長官相当になっていました。
実は、土方歳三も、陸軍奉行並の傍ら裁判局頭取を務めていますので、土方歳三と竹中重固(竹中春山)は、函館で「同僚」だったと言う事になります。

竹中半兵衛の子孫が幕末に旧幕府軍として戦っていただけでも驚きですが、しかも、土方歳三と一緒に蝦夷に渡って仕事をしていたのです。

この幕末の竹中重固(竹中春山)は、惜しまれつつ病死した竹中半兵衛の子である竹中重門(たけなか-しげかど)の系列となります。

1600年の関ケ原の戦いの際、竹中重門は最初、石田三成に協力します。
しかし、井伊直政の仲介を受けて東軍・徳川家康に鞍替えしました。
本戦では黒田長政と共に奮闘し、小西行長の捕縛と言う戦功も挙げ、美濃・不破郡岩手6000石を安堵されています。
こうして、竹中家は、徳川幕府の幕府旗本(交替寄合席)となり、竹中氏陣屋を拠点としていました。

竹中氏陣屋と岩手城

幕末の竹中重固(竹中春山)は、同じ竹中家でも分家の出だったようですが、本家・竹中黄山(たけなか-おうざん)の養子となって1861年に宗家を継いだようです。
1864年、大番組となり、幕府陸軍が創設されると「陸軍奉行」として、水戸・天狗党征伐や長州征伐にて活躍しました。

慶応3年(1867年)には、若年寄並・陸軍奉行に就任していますので、優秀な人材だったようです。
このように、コテコテの旗本ですので、1868年の鳥羽伏見の戦いでも主戦派として伏見で新政府軍と戦っています。
この時、旧幕府軍の総指揮を執ったのは、陸軍奉行・竹中重固でして、旧伏見奉行所を本陣にしていました。
敗戦した竹中重固は戦略性に乏しく、部隊を残したまま淀城まで逃げています。
そして、出家しますが、すぐに純忠隊を結成すると、上野・彰義隊に加わって新政府軍と交戦しました。

その後、奥羽を転戦すると仙台にて榎本武揚に合流し、蝦夷地に渡ります。

蝦夷(北海道)では、当然「蝦夷共和国」で幹部に名を連ねますが、どうやら、鳥羽・伏見での作戦失敗を仲間は重く見ていたようです。
そのため、軍事関連の要職ではなく「海陸裁判所頭取」を担当しています。

それが不服だったのか?、理由は不明ですが、函館戦争になるまえにイギリス汽船で東京へ戻り、明治2年5月28日、養父・竹中図書の薦めによって新政府に投降しました。

その後は領地没収・除族となり、福岡藩預りとなりますかが、のちに僅か300石となっていた竹中家の預りとなっています。

そして、明治4年(1871年)、養父・竹中重明とともに北海道に入植しました。

明治5年(1872年)、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出しています。

明治6年(1873年)、東京府に出仕しますが、明治8年(1875年)に辞職。
その後は実弟・竹中元賀が経営する蓬英社に入社して殖産事業に尽力しました。

明治24年(1891年)に竹中重固(竹中春山)は死去。享年64。

菩提寺は東京都港区の泉岳寺。

軍師・竹中半兵衛に関してはこちら
竹中氏陣屋と岩手城~破却を免れた竹中家先祖伝来の地
榎本武揚 蝦夷共和国総裁として新政府軍と果敢に戦った戊辰戦争



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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