土持政照とは~沖永良部島で西郷どんを助けた命の恩人


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土持政照(つちもち-まさてる)は、幕末の薩摩藩士で、土持叶之丞綱政の子として1834年に生まれた。
父は天保年間に、沖永良部島(おきのえらぶじま)に何度か赴任しており、島妻・鶴との間に生まれたのが、土持政照ということになる。

土持氏と言うのは、戦国時代に日向で伊東家と争った大きな勢力であったため、その子孫が島津家に仕官した庶流などと考えられる。
薩摩藩14代藩主・島津勝久のときに、土持家は家老も務めた家柄となっている。

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子供の土持政照は鹿児島で養育を受けたが、父の本妻が男子を産んだため、役人として沖永良部島に戻され、間切り横目となっていた。

間切り(まぎり)と言うのは、奄美諸島独特の行政用語で、村と村を区切ると言う行政区分の意味で、横目と言うのは警察官のような役目のため、間切横目と言うのは村の治安を担当する役人と言う意味で、代官よりは低い身分となる。

そのため、西郷隆盛が、罪人として沖永良部島の和泊村へ配流となった際に、土持政照が面倒を見た。
当時の沖永良部島代官は黒葛原源助、付役は福島清蔵である。

なお、西郷隆盛の暗殺を狙う、幕府の密偵が島にもやってくる可能性があることから、それら不審な動きの監視と言う役割も任せされていたと言う説もある。
この場合、牢に入れて監視を2名つけることで、西郷の身の安全を図れると言う趣旨であり、また、粗末な食べ物しか与えられていないのを密偵が見れば、いずれ死ぬだろうと報告に戻るであろうと言う考えもあったようだ。

実際、西郷隆盛は、壁もない牢にて風雨にさらされた苦しい状況であったため、土持政照は代官・黒葛原源助に相談の上、自費にて座敷牢を建てて厚遇するなどしたとされる。
この待遇に感謝した西郷隆盛は、土持政照と義兄弟の契りを結んだ。
ちなみに、同じく沖永良部の西原村に流されていた川口雪篷と西郷隆盛は知り合いとなり意気投合している。



土持政照は、西郷より与人役大体(役人の心得)、横目役大体(警察の心得)の教えを受けて、明治3年になると凶作時にそなえる互助組織の社倉を設立し、沖永良部島の発展に尽くした。
明治35年12月4日死去。享年69。

土持政照の子・土持綱義は、和泊村の初代村長になっている。

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