遠藤謹助 日本近代造幣の父で長州五傑の一人


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 遠藤謹助(えんどうきんすけ)は、長州藩士の子として1836年2月15日に生まれたが、幼少期の頃は良くわかっていない。
 遠藤太市郎の弟とされる。

 1862年、長州藩がイギリスから購入した蒸気船「壬戌丸」(ランスフィールド号)を江戸湾まで回航した際、江戸の桜田藩邸にいた遠藤謹助は井上馨と船に乗船している。

 1863年、周布政之助が許可し、長州藩が密かにイギリス留学生を送ることとなった際には、井上馨、山尾庸三伊藤博文井上勝ら長州五傑の1人(長州ファイブ)としてイギリスに渡った。

 ロンドンでは英語を学び、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジでは分析化学・地質・鉱物に関して学んだ。

 特に1964年1月にイングランド銀行を訪問して中央銀行で印刷される紙幣に関してはつよい関心を持ち、近代国家建設の為の重要性を感じたとされる。

 1864年4月、新聞報道で下関戦争を知ると、井上馨と伊藤博文は急遽帰国したが、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助は引き続きイギリスに滞在した。

 1865年に薩摩藩が留学生15人(町田民部・畠山丈之助・村橋直衛・名越平馬・市来勘十郎・中村宗見・田中静洲・東郷愛之進・鮫島誠蔵・吉田己二・森金之丞・町田申四郎・町田清蔵・磯永彦輔・高見弥一)と視察員4人(新納刑部・松木弘安・五代才助・堀壮十郎)の計19人をイギリスに派遣。

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 薩摩藩とは八月十八日の政変以来、犬猿の仲であったが、イギリスでは町田清蔵らと情報交換を行い、親しくなっている。

 ハッキリとした理由は不明だが、山尾庸三、井上勝を残して、遠藤謹助は1863年3月に先に帰国。

 帰国した頃には桂小五郎西郷隆盛の間で薩長同盟が結ばれ、遠藤謹助は英語力を買われて桂小五郎から外国との交渉役を任された。

 同年1866年、英国公使ハリー・パークスが、ジョージ・キング提督に軍艦4隻を指揮させて、長州藩の三田尻を訪問させると、井上馨らは出迎えて饗応した。
 翌日に停泊している英国艦提督室で、藩主・毛利敬親毛利元徳(毛利定広)が会見した際には、井上馨と遠藤謹助が通訳をした。

 また、薩摩藩の協力を得て長崎グラバー商会から蒸気船を「薩摩藩名義」にて購入した際には、五代才助の世話にもなっている。

 徳川慶喜が大政奉還をし、戊辰戦争を経て新政府が樹立されると遠藤謹助は兵庫運上所司長(所長)として税関業務や外交事務に携わる傍ら、近代的な病院建設にも尽力した。

 明治2年8月には大蔵大輔(次官)の大隈重信、大蔵少輔(副次官)の伊藤博文がいた大蔵省に入り、通商司となった。

 この頃、日本の通貨は諸藩1000種類以上あり、また信頼も低く、貿易を行う諸外国からは苦情も相次いでいたため、金貨5種、貿易用の銀貨5種、銅貨3種の計136種類を円形の硬貨にて造幣することを政府は決定。

 造幣頭(局長)は井上馨であったが、明治3年(1870年)11月に遠藤謹助は造幣権頭(副局長)に就任。

 イギリスが香港で使用していた造幣機械を中古で購入し、イギリス東洋銀行の香港造幣局長・ウィリアム・キンドルを首長(工場長)として造幣寮に招へいした。
 しかし、独断専行のキンドルと衝突し、明治7年7月に辞職して、東京の大蔵省に去ったが「造幣寮の大改革」と言う意見書を大蔵卿・大隈重信に提出。

 意見書は明治政府で審議のうえ採用され、明治8年1月にキンドルら外国人技師10名を解雇し、イギリス東洋銀行との提携も解除され、日本主導で造幣することとなった。

 こうして、明治14年11月には遠藤謹助が造幣局長に任じられ、日本人技師の技術向上を目指し造幣学研究会を立ち上げるなど、日本人の造幣技術者養成に努める。
 そしはて、明治22年には残っていた外国人技師も解雇し、すべて日本人にて貨幣が作られるようになった。

 日本の造幣に大きく貢献した遠藤謹助は、明治26年(1993年)6月に退官。

 明治26年(1893年)年9月12日、神戸の葺合村で病没した。58歳。

 墓地は湯島の麟祥院。

 なお、毎年4月中旬の1週間、大阪造幣局内の桜並木「桜の通り抜け」は、明治16年に当時の局長だった遠藤謹助の提案で、一般公開が始まったもので桜並木の横に遠藤謹助の由来碑が建立されている。

 

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