占守島の戦い 日本国土を守った最後の戦い

占守島の戦い



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占守島の戦い

占守島の戦い(しむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後に、日本の千島列島東端にある占守島にて発生した、ソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との戦闘です。
戦後75年以上が過ぎた今でも、多くの日本人は、8月15日の玉音放送で終戦したと答えるでしょう。

しかし戦勝国である連合軍では9月2日、中華民国は9月3日、そしてどさくさ紛れに領土を奪った中華人民共和国とソ連も9月3日を対日戦勝記念日としています。

実は日本人が終戦したと思っていた8月15日以降、遠く離れた千島列島の東端では、新たな戦闘が開始されていました。
まだ戦争は終わっていなかったのです。



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今回は日本人にはあまり知られていない、「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」について紹介します。
日本の国土を守るために、命を懸けて戦った男たちを日本人はもっと知らねばいけません!

玉音放送後に侵攻してきたソ連軍

1945年(昭和20年)8月15日(水)正午、日本は玉音放送で終戦を知ります。
すでに連合軍は前日のポツダム宣言通知により、日本が降伏したことを知っていました。

大本営からも武装解除命令が下され、全部隊は18日(土)の16時を持って戦闘停止することが決定。

「占守島(しゅむとう)」に配備されていた、第91師団と戦車第11連隊も徐々に武装解除の準備を進めていました。

占守島はカムチャッカ半島の、ロパトカ岬に面した北方の島です。
現在ロシアが実効支配していますが、1875年(明治8年)に締結した「樺太・千島交換条約」以降は、正式な日本の領土となっていました。

1940年(昭和15年)陸軍第5方面軍は、アメリカとの戦闘を予想して、配下の部隊を送り込み占守島と隣接する「幌筵島(ぱらむしるとう)」の要塞化を進めていたのです。

そのため占守島には第91師団が駐留しており、その後満州から転進してきた戦車第11連隊も加わり戦闘に備えていましたが、戦闘行為はほとんどありませんでした。

終戦当時、占守島には軍人約8500人の他に、夏季だけ「日魯(現:ニチロ)」の缶詰工場へ仕事に来る女工さん約500人なども含め、民間人が約2000人程いました。

大きな戦闘も無く、缶詰などの食料備蓄も豊富だった島では飢えることもなく、敗戦はくやしくてもようやく故郷に帰れると安堵していたでしょう。
皆で酒を酌み交わし、帰国を待ち望んでいたとの証言もあるほどです。

しかし彼らの希望は一瞬にして奪われました。
玉音放送から3日目の8月18日(土)未明、突如島の北端にある竹田浜で大量の弾着音が聴こえます。

突然の奇襲に軍人たちは、しばらく敵が何者かも分かっていませんでした。
それでも「敵襲~!」の声が上がると、深夜にも係わらず即座に戦闘態勢を整えます。

実は先にも触れたように、占守島では大きな戦闘が無かったため、弾薬や砲弾などの装備が全て揃っていたのです。

ヤルタ会議で決定していた領土分配

1945年(昭和20年)8月18日(土)深夜0時半頃、敵襲の声を聴いて兵隊たちは訳も分からず飛び出しました。
当初は誰しもが敵がソ連だとは考えていなかったと、当時参戦していた生き残りの方の証言があります。

そもそも大本営ですら、降伏前の和平仲介をソ連に頼む気でいました。
今となっては内部に相当数の共産スパイが入り込んでいたと判明していますが、何故ソ連に仲介を頼もうとしていたのかと言えば、日ソ不可侵条約があったからです。



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しかしその裏でソ連のスターリンは、不可侵条約など守る気はサラサラありませんでした。
何故なら1945年2月に開かれたヤルタ会議で、日本への侵攻はすでに決定されていたからです。

当時アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、そしてソ連のスターリンはこのヤルタ会議の中で、戦後の領土分割について取り決めをしていました。

第二次世界大戦自体が、共産主義者たちの仕掛けたもの…。
勿論この3人の周辺でもスパイが暗躍していましたが、当人たちも共産主義思考だったのです。

ヤルタ会議ではドイツ敗戦後の90日目に、ソ連が日本を攻める事は決定していました。
ちなみにスターリンが狙っていたのは、北海道・千島列島・樺太の領土です。

日本では1945年6月22日(金)の時点で、今ままで口を挟まなかった天皇陛下が、御前会議で「戦争終結」の打診を求めていました。
そのため7月26日(木)に作成されていた、ポツダム宣言も何とか早々に受け入れを考えていたのです。

しかし唯一白人に立ち向かってきた日本人を、白人たちが許すはずもありません。
勿論原爆投下実験もしたかったルーズベルトは、降伏をさせないつもりでいたのです。
当然領土の欲しいスターリンも、戦争を仕掛けた共産主義者たちも同じでした。

ドイツ降伏が1945年5月8日(火)、ヤルタ会議で決定した90日後の8月6日(月)の午前8時15分。
アメリカは広島に原爆を投下しました。

そして8月8日(水)、ソ連は突然日本への宣戦布告を行い翌日から満州・樺太への侵攻を開始!

唐突過ぎるソ連の宣戦布告に、ポツダム宣言受理で揉めていた軍部も青ざめます。
また翌日の9日(木)午前11時2分には、長崎にも原爆が投下されたことで降伏への意志を固めざるを得なかったのです。

断固反撃を命令した「樋口季一郎」

占守島に駐屯していた第91師団は、陸軍第5方面軍の隷下です。
司令官は「樋口季一郎(ひぐちきいちろう)」。
ユダヤ人を救ったことでも有名な樋口は、この時日本の国土も守る決断をしたのです。



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樋口季一郎は1888年(明治21年)生まれ。
陸軍士官学校と同時に、東京外語学校にてロシア語も学び、ウラジオストクや満州などに赴任していました。

1942年(昭和17年)に札幌に赴任し、第5方面軍の司令官となります。
ソ連軍が占守島に上陸した知らせを受け、樋口季一郎は一瞬考えました。

すでに大本営からは武装解除、戦闘停止命令が下されている中、自己判断で攻撃命令を出しても良いものか…。
せっかくポツダム宣言が受理され、天皇陛下自らが終戦を告げた今、新たな戦闘はこれまでの努力が全て無駄になる恐れがあるのです。

しかし樋口季一郎は決断します。
「断固反撃し、ソ連軍を撃滅せよ!」と第91師団に命令を下しました。
もし樋口がこの時決断しなければ、日本は北海道まで失っていたかもしれません。

玉砕決意で指揮した第11戦車連隊長「池田末男」

1900年(明治33年)愛知県で生まれた、第11戦車連帯隊長の「池田末男(いけだすえお)」。

陸軍士官学校を経て、騎兵連帯の中隊長、陸軍戦車学校の教官を務め、1945年(昭和20年)1月に第91師団戦車第11連隊隊長として占守島に赴任しました。

池田もまた玉音放送後は終戦処理の業務を指揮しており、遠く離れた故郷へようやく帰れると思っていたでしょう。

しかしソ連襲撃の報を受けた池田は、迅速に戦闘準備の指令を下し、各中隊に天神山への終結を命じました。



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自らも天神山へ移動しましたが、深夜の襲撃や中隊の孤立などで、集まったのは第3中隊のみ…。
池田は士気を高めるため、部下たちにこう叫びました。

「もはや降魔の剣を振るうしかない。
諸子は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報せんとするか。
あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか!」

この言葉に部下たちも覚悟を決め、ソ連に突撃していったのです。
池田は普段から、身の回りのことは部下を使わず自分で行うような人でした。

恐縮する部下に池田は、「お前たちは私に仕えているのではない、国に仕えているのだ」と答えたと言われています。

せっかく帰れると思った矢先、連隊長としては部下たちも無事に故郷へ送りたかったでしょう。
実際全員突撃とは言わず、赤穂浪士や白虎隊になりたい者は一歩前へ!と声を掛けています。

しかし部下たちは祖国を守るため、池田に続きました。
池田は最後に「池田連隊はこれより敵中に突入せんとす 祖国の弥栄を祈る」と司令部に打電し別れを告げています。

池田は頭に日の丸の鉢巻を巻き、軍服を脱ぎ捨てYシャツ姿で戦車の砲台に跨って出撃しました。
手には日章旗を掲げ、国を守るために指揮を執ったのです。

結果池田は戦車に攻撃を受け、8月18日に戦死しました。
ただ戦車第11連隊は各位置で奮戦し、ソ連軍を竹田浜方面に撤退させたのです。

戦車第11連隊は池田連隊長を含む、97名が戦死しています。
自らを犠牲にしても、日本を守ろうとした11連隊。
今もこの魂は受け継がれ、第11戦車隊では「十一」を「士」と読ませ戦車には「士魂」の文字を掲げています。

圧勝したのに奪われた北方領土

激戦が続いた占守島の戦いですが、実はソ連軍の方が被害は甚大でした。
奇襲したものの、ソ連軍は戦車も上陸させることが出来ず、歩兵がメインだったため武器や補給も不足気味だったのです。

そもそもスターリンは当初北海道の北部半分と、千島列島への侵攻をアメリカに拒否されていました。
ヤルタ会議で話したルーズベルトはすでに死去しており、次のトルーマン大統領が許可を出さなかったのです。

すでに終戦し、あとは武装解除を待つだけだったアメリカとすれば、この先共産主義国のソ連に北海道を渡したくないのは当然と言えます。

しかしそんな約束を守るようなスターリンではありません。
結局こっそり侵略しようと占守島に兵を送りましたが、準備が足りていなかったのでしょう。

日本も死傷者約1000人余り出していますが、ソ連は死傷者・行方不明者合わせて約1500人以上出しています。
ある意味でこの戦いは、大日本帝国最後の勝ち戦でした。

実は武器解除の時刻が迫っていたため、第5方面軍司令官の樋口は、マッカーサーを通してスターリンへ停戦を呼び掛けていました。

勿論スターリンはそれを無視し、合間での停戦交渉もソ連側の拒否で中々進まず、結局戦闘は20日(月)まで続いていたのです。

最終的には8月23日(木)になって、ようやく停戦し武装解除されました。
日本は勝利したのにも係わらず、降伏させられたのです。



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ちなみに島に残されていた民間人は、日魯の独航船26船分散し8月19日(日)の午後4時頃、ソ連の爆撃を受ける中で霧に紛れて北海道へと脱出しました。
残念ながら1隻辿り着けなかった船がいましたが、多くの人が無事に逃げることが出来たのです。

何故か情報が消されている「堤不夾貴」中将

「堤不夾貴(つつみふさき)」は、第91師団の中将で師団長を務めていました。
樋口季一郎との連絡や、戦車第11連隊の池田にも攻撃命令を伝えるなど、占守島の戦いでは中心人物と言えるでしょう。

また降伏文書に調印した人物でもあります。
しかし何故か日本のウィキペディアでは、名前はあるものの詳細情報がありません。

勿論、情報不足で書かれていない人物は多々存在していますが、堤は英語版・イタリア語版・ロシア語版のウィキペディアでは情報がしっかり書かれているのです。

参考までに海外版から堤のプロフィールを探ると、1890年(明治23年)3月3日生まれ。
山梨県出身で、陸軍士官学校卒業後に歩兵第10部隊参謀長として、満州侵略に加担したとあります。

占守島には、1943年(昭和18年)の10月に赴任していました。
こんなに情報があるのに、日本で書かれないのは何故でしょうか…。
堤は降伏交渉にも応じつつ、武装解除は遅らせようともしていた人です。

当然指揮官としては、不可侵条約を破り、奇襲攻撃をしてきたソ連を信じることは出来なかったでしょう。
また被害状況などを考えれば、彼は勝ち戦の将となります。



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戦後の日本は平和そうに見えても、GHQの工作によりアメリカや中韓の支配が今も続いている国です。
そのため大日本帝国最後の戦勝を、日本人には知られたなかった可能性が高いでしょう。

しかし我々日本人は、占守島の戦いで陣頭指揮を執っていた「堤不夾貴」を忘れてはいけません。

今も狙われいる北海道

降伏した日本は、その後アメリカ軍の支配下におかれました。
占守島の戦いに勝利したものの、軍は解体され結局千島列島はソ連の支配下に置かれたのです。

今もロシアに実効支配されている北方領土も、結局は話し合いなどで取り戻せるものではありません。

しかし占守島の戦いが無ければ、確実に北海道はソ連に侵攻されていたでしょう。
ソ連は解体されてロシアになりましたが、全く油断は出来ません。

また現在はロシアの南下政策より、恐れるものは中国人の台頭です。
今もリアルタイムで、北海道中の土地や水資源を奪われており、もはや侵略されていると言っても過言はありません。

勿論北海道だけではなく、沖縄や本州のあちこちで、中国人は暗躍している最中です。
強大な独裁共産主義国である中国では「国防動員法」があり、今現在海外にいる中国人たちは皆共産党員なのです。

留学生や商売人も含め、一見民間人に見える中国人でも、有事の際に動くのは今までの出来事からも明らか…。

長野オリンピックでの暴動、新型コロナウィルス騒ぎでの買い占め、ネット工作、企業スパイなど何かあれば共産党の命に従う者がたくさんいるのが現実。



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米中関係が悪化する中、一番油断出来ないのは日本国内なのです。
今こそ占守島の戦いを思い出し、命懸けで領土分断から救った人達に恥ずかしくない行動をするべきでしょう。

(寄稿)大山夏輝

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