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宮川経輝(みやかわ-つねてる)は、1857年1月17日に、熊本藩・郷士の家に生まれた。
肥後・阿蘇神社の神官の子ともある。
1871年(明治4年)9月1日に、熊本洋学校が設立されると、アメリカ軍人であるリロイ・ランシング・ジェーンズの英語授業を受ける。
1876年(明治9年)1月30日、学友35名と共に「奉教趣意書」にサイン(誓約)し、熊本バンドを結成。
この熊本バンド結成に反発した旧守派によって、ジェーンズの任期満了と共に熊本洋学校は閉鎖されたが、宮川経輝、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰らと共に、新設された京都の同志社英学校に転校する。
こうして、新島襄の同志社第一期卒業生となり、卒業演説では「女子教育論」を論じている。
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1879年の同志社卒業後には同志社女学校の教頭に就任。
1881年には、加藤勇次、伊勢時雄と共に、女子教育社を設立した。
1882年、大阪基督教会の牧師となると、大阪基督教徒青年会(大阪YMCA)初代会長に就任し、日本プロテスタントの源流の1つとなった。
1883年、沢山保羅から按手礼を受けて正式に牧師となった。
1886年、泰西学館を設立したが、1895年に経営が悪化したため、泰西学館の館長を辞任。
1904年、日露戦争が始まると調査団として朝鮮に渡って、在韓日本人にキリスト教を伝道した他、本多庸一と一緒に戦地の軍隊を慰問している。
その後も、日本組合基督教会の重鎮として精力的に活動し、小崎弘道、海老名弾正と三元老と称された。
1911年には、62歳の広岡浅子が成瀬仁蔵の紹介で、宮川経輝から洗礼を受けている。
1925年、大阪教会を引退すると名誉牧師となっている。
昭和11年(1936年)3月2日に死去。
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2015年 11月 09日
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