源頼朝の知っておきたい重要ポイントを簡潔に1分でわかりやすく【鎌倉殿の13人】大泉洋さん

源頼朝



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源頼朝とは

源頼朝(みなもとのよりとも)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となり武家政権を築いた支配者・政治家。
源義朝の3男として1147年に、尾張にて生まれた。
母は熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘である由良御前になり、乳母は比企尼、寒河尼、山内尼などになる。
1159年、父・源義朝は藤原信頼と結んだ平治の乱にて、京での政権を奪取しますが平清盛らの反撃にあい、山内首藤俊通・片桐景重らの手助けて東国目指して落ち延びた。
その途中、源義朝は尾張で殺害され、源頼朝は池禅尼(いけのぜんに)の口添えで死は免れ伊豆に流罪となり源氏は衰退した。
1167年、平清盛は太政大臣となり平氏は全盛を極めている。



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なお、平治の乱の際に約15日間、源頼朝は右兵衛権佐に任じられた。
その後は「前」右兵衛権佐と言うことになったが、関東の武士は佐殿(すけどの)と呼んで敬意を表している。

そして伊豆に流罪となった源頼朝は、伊東祐親や北条時政の監視のもと約20年を過ごした。
伊東祐親の娘・八重との間には千鶴丸を儲けるも、京の大番役から戻った伊東祐親の知る所となり、命じられた伊東家の下人・善児が殺害した。
その後、北条時政の娘・北条政子と結ばれた源頼朝の間には、大姫が生まれている。
1180年、源頼政と以仁王が平家打倒の挙兵をすると、平氏である伊豆の目代・山木兼隆を襲撃し、源頼朝も挙兵した。
その後、石橋山の戦いでは平氏軍の大庭景親に敗れるも、安房へ逃れて安西景益、上総広常、千葉常胤らの来援を得て相模に入り鎌倉に本拠を定めた。
次いで、源義仲(木曽義仲)や、平氏を滅ぼすと天下を平定。
1185年、全国各地の守護・地頭設置の勅許を得て武家政治の基礎を固めた。
1192年には征夷大将軍を拝し、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府が確固たるものとなった。

1199年、相模川にかけた橋の落成式に出席した帰り道に落馬したのが原因ともされるが源頼朝は死去。享年51。
その後、北条時政や北条義時ら北条氏が徐々に権力を強めて行った。

ポイント

源頼朝は日本で初めて武士による政権を築いた
平家を滅亡させると鎌倉幕府の初代・征夷大将軍になった

鎌倉殿の13人では俳優の大泉洋さんが源頼朝を演じられます。



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この記事は短時間で理解できるように要点のみを明記したものです。
更に詳しくご存知になる場合には、恐れ入りますが下記もあわせてご確認頂けますと幸いです。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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