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NHK連続テレビ小説「あさが来た」に登場する元官僚・山崎平十郎のモデルとされる人物は中川小十郎です。
そんな大蔵省の元官僚・山崎平十郎と言う「ヘイさん」こと中川小十郎をご紹介したいと存じます。
中川小十郎(なかがわ-こじゅうろう)は、1866年1月4日に生まれた。
出自は、西園寺公望に仕えた丹波の郷士・中川禄左衛門と、母・さきの長男。
13歳で上京して勉学に励むと、大学予備門の時には秋山真之、夏目漱石、南方熊楠、正岡子規、芳賀矢一、山田美妙らと苦楽を共にし、帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)を卒業。
明治26年に文部省に入ると、明治28年に文部大臣・西園寺公望(さいおんじ-きんもち)の秘書官を務めると言う異例の出世を遂げ、京都大学の創設にも関わると、京都帝大書記官となる。
また、広岡浅子・土倉庄三郎の支援も受けた成瀬仁蔵が日本女子大学の設立を目指し、西園寺公望が発起人を務めた際には、戸川安宅、麻生正蔵らと共に、文部省官僚として設立に尽力した。
なお、叔父・中川謙二郎はお茶の水女子大学の校長を務めている。
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と言う事で、ドラマ・あさが来たでは元大蔵省官僚と言う設定になっておりますが、実際の中川小十郎は文部省でした。
明治30年、文部大臣・蜂須賀茂韶のもと文部省参事官に就任し、西園寺公望が文部大臣に復帰した際にも職務を継続したが、明治31年に西園寺公望が辞職した際に、中川小十郎も官職を辞した。
広岡浅子(あさが来たでは、白岡あさ)らに招かれて加島銀行理事に就任し、広岡家加島屋の再興に貢献した他、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)副社長を勤めるなど活躍する。
明治33年には自ら京都法政学校(立命館大学)を創設。
明治36年、京都帝大書記官として官界に復帰すると、明治39年、第一次・西園寺内閣にて内閣書記官兼内閣総理大臣秘書官に就任した。
明治41年からは樺太庁事務官として樺太に渡り行政を指揮。
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その後、文部省を退職すると台湾銀行副頭取に就任し、大正5年には京都市長に選出されたが、台湾にいた中川小十郎は断っている。
大正14年、台湾銀行頭取を任期満了により退任した中川小十郎は、貴族院令が適用されて、貴族院議員に勅選される。
1931年(昭和6年)7月、立命館大学の初代総長に就任。
1944年(昭和19年)10月7日、立命館大学から京都の自宅に帰宅し、床に就いくとまもなく心臓麻痺を起こし死去。享年78であった。
・広岡浅子に関してはこちら
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コメント
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2015年 10月 31日
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2016年 2月 13日トラックバック:井上秀~家政学者として教育に貢献【あさが来た】 – 幕末維新
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2016年 2月 13日
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