船津伝次平 日本三老農として混合農法(船津農法)を広めた功労者


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 船津伝次平(ふなつでんじべい)は、上野国原之郷(前橋市富士見町原之郷)出身の名主で、幕末の1832年に生まれた。
 幼名は市蔵。
 幼い頃は、農業を営む父が農閑期に開いた寺子屋で学んだ。

 船津伝次平が生まれた船津家は旧武田家臣で、家訓には「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」とある。

 その為、地主化への道は進まず、養蚕を中心にした商業的農業を営むなかで、和算、漢学、俳諧といった文化も積極的に勉強し、養蚕の基本である桑の栽培の研究した。

 1857年、父親の死後、若くして家督を継ぐと、名主として赤城山の植林事業や、寺子屋の開設するなど、地域文化の核としての役割を果たすなど、船津伝次平は若い頃から名望が高く、何年も村役人を務め水害防止などに実績を挙げている。

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 明治元年(1868)には前橋藩から、原之郷ほか35カ村の大総代を命じられ、地租改正にあっては改正御用掛として尽力。
 また、女性が中心だった養蚕に男性も本腰を入れるべきだと、明治6年には『桑苗簾伏方法』『太陽暦耕作一覧』を著して農家に広く配布した。

 前橋藩士で器械製糸工場を作った速水堅曹や、群馬県令になった楫取素彦によって、明治8年(1877年)、内務卿・大久保利通に農業の精通者として推薦され、明治10年12月、45歳の時、家族を群馬に残して上京すると内務省御用係勧農局事務取扱に就任。

 駒場農学校(東京大学農学部の前身)に勤務すると農場監督として農業を指導。
 船津伝次平の農業技術は、固有農法に西洋農法を取り入れた混合農法(船津農法)で、全国各地の農談会・集談会の講師としても農業全般の近代化に貢献。

 明治19年2月、農商務省(現農林水産省)農務局を農学校と兼務し、農事巡回教師として指導にあたった。
 どこへ行っても農民と同じ身なりで、接したと言う。

 明治24年8月、農商務省技手、29年4月農事試験場技師。

 明治31年、胃を患い、農事試験場技師を辞し帰郷。そして、明治31年6月15日、生家にて没した。67歳。

 墓は富士見村原之郷の船津家墓地にあり、群馬県史跡となっている。

 船津伝次平は日本三大老農の1人とされる。

 「老農」とは、農業を研究した上に、体験を重ねて、非常に高い農業技術を身に付けた農業指導者のことを言う。

 功績を称えて、全国からの寄付により東京都北区の飛鳥山公園には高さ3mの「船津翁の碑」が明治33年に建立された。

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