勝小吉とは BS時代劇「小吉の女房」 岡野融政(岡野孫一郎融政)との逸話も

勝小吉



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勝小吉とは

勝小吉(かつ-こきち)は、江戸時代後期の1802年に生まれた江戸幕府の旗本になります。
旗本・男谷平蔵忠恕の3男として生まれましたが、1808年に、41石の貧乏旗本・勝甚三郎(勝元良)の末期養子となりました。
末期養子と言うのは、すぐに養子縁組するものではなく、自分が死んだ後に養子にすると、届け出しておいて、お家存続を図る仕組みのことを言います。
幼いころからケンカが好きで度々問題を起こしていたようで、自由奔放な人生を送るようになります。
1815年には江戸を飛び出すと、途中、騙されて無一文になりましたが、乞食をしながら伊勢神宮を目指したそうです。



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1819年、江戸に戻っていた勝小吉は、末期養子の約束をしていた、勝家を相続することになり、勝元良(勝甚三郎)の娘である「お信」と結婚しました。
<注釈> 大奥御年寄・瀧山の叔父でもある勝元良は、1809年に亡くなっていた

勝氏(かつ-し)は、近江国坂田郡勝村(長浜市勝町)を発祥とする物部姓の勝家となります。
1575年、勝時直が徳川家康の家臣となって、服部正成(服部半蔵)などの集団と行動を共にする鉄砲玉薬同心を務めた、徳川家直参です。
江戸時代に入ると御家人となっていました。
江戸時代の御家人(ごけにん)の定義は、将軍に謁見することができない家臣と言うことになります。
これに対して旗本は、家督を継いだ際などに、将軍に謁見して報告することができました。
江戸時代中期の1752年、勝命雅(かつ-まさのぶ)の時に、鉄砲玉薬同心から支配勘定へと昇進し、御家人から旗本へと出世を果たしています。

こうして、旗本の勝家を継いだ勝小吉でしたが、再び江戸から離れて、人をだましながら旅をしたため、甥で剣客の男谷信友(男谷精一郎)によって連れ戻されると、勝家の座敷牢に3年間入れられました。
その間になる1823年に、勝麟太郎(勝海舟)が誕生しています。

座敷牢から出されると、少しは刀剣の売買などをしながら、喧嘩と道場破りを続けたようです。
そして、ついに勝家にはいられなくなった模様で、岡野家の屋敷に転がり込みました。

岡野融政(おかの-とおまさ、岡野孫一郎融政)は、神奈川県相模原市中央区淵野辺などに1412石を知行した幕末の旗本になります。
先祖は、戦国時代小田原城の北条氏重臣として主に外交面で活躍し、のち大阪城豊臣秀吉の御伽衆にもなった板部岡江雪斎になります。

幕末の岡野家9代目・岡野融政(岡野孫一郎融政)は、江戸城下になる所入江町の拝領地(540坪)に屋敷を構えていたようです。
しかし、岡野家も御書院番から小普請になっていました。
この小普請(こぶしん)と言うのは、無役無勤の者で普請(公共工事)があると、駆り出される武士のことを言いますが、勝家も同様です。

無役と言うのは、役職が無い(仕事が無い)と言う意味になります。
小禄の旗本の場合、20石・30石と言った家禄ではとても家族・家来を養えません。
そのため、役職に就くことによって、仕事を得て、役高や役料などが別途入る訳ですが、無役の場合、それが無いのです。
よって、当時の旗本は、役に就くため(仕事をもらうため)に、上司への進物や接待を欠かさず行っていました。


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このように勝小吉は無役だったため、江戸の岡野邸の敷地内に住居を得て、勝小吉と妻・お信、子の勝海舟(勝麟太郎)の一家は1831年~1841年12月まで、約10年間、世話になっていた模様です。
勝麟太郎は、9歳~19歳頃までの青春時代を岡野家の屋敷にて過ごし、勉学に励んだと言うことになります。
ただ、1838年に勝小吉は37歳で隠居したため、16歳の勝海舟が、勝家の家督を継ぎました。
そして、将軍・徳川家慶の5男・初之丞(徳川慶昌)の御学友として家来に取り立てられるのです。

ただし、この岡野孫一郎ですが、酒色にうつつを抜かす道楽者で、とうとう無役になったと言います。
そして、多額の借金を抱えたため、岡野家に奉公していた大川丈助から、借金339両を返済しないと、幕府の評定所(老中とも)へ訴えると脅されます。
この岡野家断絶の危機に、借金の返済を勝小吉が手伝ったと言う事になっています。
勝小吉は、自ら借金して旅費を工面し、岡野家の知行地のひとつになる御願塚村(兵庫県伊丹市)へ出向くと、御願塚村の代官・山田新右衛門の屋敷に逗留し、400両(550両とも)を確保するのです。
村人が金を出し渋っていると「金策ができなければ面目がない。今晩、切腹するから、亡骸を倅(勝海舟)に渡してくれ。 」と脅したと言い、首桶まで江戸から持参し、白装束も購入したとされます。
こうして、大川丈助に339両支払い、今後騒ぎを起こさないよう、一筆書かせて一件落着にしたそうです。

このように、勝小吉の江戸っ子侍的な気質は、勝麟太郎にも伝わっていて、交渉術もまたそこから生まれたものと感じます。



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1846年に、勝海舟は赤坂に引越しますが、勝小吉は42歳のとき1843年に鶯谷に庵を結ぶと、自らの自由奔放な生き方を振り返り、子孫への戒めとした『夢酔独言』を著しました。
1850年、勝小吉は49歳で死去しています。

以上、基本的には、父子鷹(おやこだか)と言う子母澤寛の小説からの解説部分もあり、諸説ありますので、その点はご勘弁願います。

2019年1月には、NHKのBS時代劇「小吉の女房」が放送され、天真爛漫貧乏旗本の妻「お信」(のぶ)を沢口靖子さんが演じます。
破天荒な夫である「勝小吉」は、古田新太さんですが、どのようなドラマになるのか楽しみですね。

男谷家とは

勝海舟の曾祖父にあたる山上銀一が、男谷家を興しました。
この山上銀一は、越後の三嶋郡長島村生まれで、幼い頃に盲目となり、鍼灸や按摩で生計を立ています。
ただし、幕末期は、障害者に優しい社会でもあり、目が見えない者には、幕府公認で、大名や旗本などに「高利貸し」することが許可されていたのです。
1両2分の元手から、江戸にて水戸藩など貸金・高利貸しとして成功し、江戸では17箇所の地主になり、巨万の富を築くと、盲官(盲人の役職)の最高位である検校(けんぎょう)となっています。
そして、1776年、男谷(おだに)家の御家人株を購入して、男谷検校と称しました。
<注釈> 御家人株とは、御家人が生活困窮した際に、借金返済のため、農民・町人などに売り渡した家格のことで、 表向きは養子縁組の形をとることが多かった。
男谷家は、のち旗本に昇進したと言う事になります。
その盲目だった男谷検校の末っ子・男谷平蔵が、勝小吉の父親にあたります。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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