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松岡四郎次郎(まつおかしろうじろう)は、幕臣の子として江戸にて、幕末の1836年に生まれたとされます。
生い立ちなど詳しいことはわかっていません。
蟠竜丸(ばんりゅうまる)の艦長・松岡磐吉は弟と言う説もあります。
そもそも、松岡四郎次郎(松岡四郎左衛門)と混同している史料もあるため注意が必要です。
松岡四郎次郎は、旧幕府軍として一聯隊(いちれんたい)の隊長をしていたようで、仙台にて榎本艦隊に合流すると、蝦夷地に渡りました。
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旧幕府軍が五稜郭を占領したあと、松前藩を追撃します。
松岡四郎次郎は一聯隊200名を率いて、明治元年11月10日に五稜郭から出陣し、二股口を抜けて松前藩が建造中だった館城(たて-じょう)を11月15日に攻撃しています。
この「館城の戦い」では、松岡藩兵60名が守備していましたが、すでに藩主と主力は江差に逃れており、松岡四郎次郎らは朝9時頃より攻撃開始、
朝10時頃には、表門の下にできていた隙間から侵入した、城内で白兵戦となりました。
松前藩(館藩)の軍事方・三上超順(松前・法華寺の元僧侶)が「まな板」を盾にて、太刀で戦ったのは有名な話です。
その三上超順を討ち取るなど、旧幕府軍が優勢に戦いを進めて、昼頃に館城は落城し、焼失しました。
その後、松岡四郎次郎らは江差に進軍すると、一聯隊(一連隊)を駐屯させたことから、江差奉行を任されています。
雪解けを待って、翌年、反撃に出た新政府軍は、4月9日早朝に乙部に上陸します。
不意を突かれた蝦夷共和国は、江差にいた一聯隊ら150名を派遣しますが、新政府軍先鋒の松前兵によって撃退されます。
その後、春日丸など新政府軍の軍艦5隻が江差の街を砲撃開始しました。
このとき、松岡四郎次郎らも砲台から反撃しますが、砲弾は敵艦に届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に撤退しました。
松前を守備していた伊庭八郎ら遊撃隊と春日左衛門らの陸軍隊合計500名が江差を奪還のために出撃しますが、新政府軍1500に押されて松前へ逃走。
その後、大鳥圭介も救援に駆け付けますが矢不来の戦いで敗退し、松岡四郎次郎らは全軍を五稜郭へ引き上げさせました。
函館に戻ると箱館総攻撃に備えて、一聯隊は榎本軍の要として急造した四稜郭に配置されます。
しかし、五稜郭との中間に位置する権現台場が新政府軍に攻略され退路が断たれたため、五稜郭に敗走しました。
箱館戦争終結後、松岡四郎次郎は弘前・蓮華寺に収容されますが、のち、北海道開拓使として出仕した模様です。
主に開拓使を乗せた軍艦に関する会計監査を担当したようで、その後、東京に戻りました。
後に三井物産の函館支店がオープンした際には、再び函館に赴きますが、函館・谷地頭の八幡山近く(碧血碑の近く)に別荘を構えたと言います。
明治24年、函館店長を辞任すると、岩内茅沼の炭鉱経営に参画するも事業に失敗したようで、その後のことはよくわかっていません。
没年も不明でして、幕末の人物にしては、松岡四郎次郎(まつおかしろうじろう)は、幕臣の子として江戸にて、幕末の1836年に生まれたとされます。
生い立ちなど詳しいことはわかっていません。
蟠竜丸(ばんりゅうまる)の艦長・松岡磐吉は弟と言う説もあります。
そもそも、松岡四郎次郎(松岡四郎左衛門)と混同している史料もあるため注意が必要です。
松岡四郎次郎は、旧幕府軍として一聯隊(いちれんたい)の隊長をしていたようで、仙台にて榎本艦隊に合流すると、蝦夷地に渡りました。
旧幕府軍が五稜郭を占領したあと、松前藩を追撃します。
松岡四郎次郎は一聯隊200名を率いて、明治元年11月10日に五稜郭から出陣し、二股口を抜けて松前藩が建造中だった館城(たて-じょう)を11月15日に攻撃しています。
この「館城の戦い」では、松岡藩兵60名が守備していましたが、すでに藩主と主力は江差に逃れており、松岡四郎次郎らは朝9時頃より攻撃開始、
朝10時頃には、表門の下にできていた隙間から侵入した、城内で白兵戦となりました。
松前藩(館藩)の軍事方・三上超順(松前・法華寺の元僧侶)が「まな板」を盾にて、太刀で戦ったのは有名な話です。
その三上超順を討ち取るなど、旧幕府軍が優勢に戦いを進めて、昼頃に館城は落城し、焼失しました。
その後、松岡四郎次郎らは江差に進軍すると、一聯隊(一連隊)を駐屯させたことから、江差奉行を任されています。
雪解けを待って、翌年、反撃に出た新政府軍は、4月9日早朝に乙部に上陸します。
不意を突かれた蝦夷共和国は、江差にいた一聯隊ら150名を派遣しますが、新政府軍先鋒の松前兵によって撃退されます。
その後、春日丸など新政府軍の軍艦5隻が江差の街を砲撃開始しました。
このとき、松岡四郎次郎らも砲台から反撃しますが、砲弾は敵艦に届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に撤退しました。
松前を守備していた伊庭八郎ら遊撃隊と春日左衛門らの陸軍隊合計500名が江差を奪還のために出撃しますが、新政府軍1500に押されて松前へ逃走。
その後、大鳥圭介も救援に駆け付けますが矢不来の戦いで敗退し、松岡四郎次郎らは全軍を五稜郭へ引き上げさせました。
函館に戻ると箱館総攻撃に備えて、一聯隊は榎本軍の要として急造した四稜郭に配置されます。
しかし、五稜郭との中間に位置する権現台場が新政府軍に攻略され退路が断たれたため、五稜郭に敗走しました。
箱館戦争終結後、松岡四郎次郎は弘前・蓮華寺に収容されますが、のち、北海道開拓使として出仕した模様です。
主に開拓使を乗せた軍艦に関する会計監査を担当したようで、その後、東京に戻りました。
後に三井物産の函館支店がオープンした際には、再び函館に赴きますが、函館・谷地頭の八幡山近く(碧血碑の近く)に別荘を構えたと言います。
明治24年、函館店長を辞任すると、岩内茅沼の炭鉱経営に参画するも事業に失敗したようで、その後のことはよくわかっていません。
松岡四郎次郎の没年も不明です。
幕末の人物にしては、わかっていることが少ないです。
・「四稜郭」「権現台場」「三稜郭」「千代ヶ岡台場」を訪れて~函館戦争の隠れた舞台
・五稜郭と箱館戦争とは~蝦夷共和国と幕末ロマンに想いを寄せて
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