梅屋庄吉と孫文 2人の友情はどうして生まれたのか?

梅屋庄吉と孫文



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梅屋庄吉(うめや-しょうきち)は、明治時代の実業家で、中華民国の国父(国家の父)とされる孫文(そんぶん)を支援したアジア主義者としても知られます。
梅屋庄吉は、明治11年(1869年)に長崎で生まれました。
父は本田松五郎、母・ノイの夫妻の子です。
幼い頃に、貿易会社をしていた遠い親戚「梅屋商店」を経営する梅屋吉五郎・ノブ夫妻の養子として入ったようで、当時から長崎と上海との貿易を担っていたようです。
なお、梅屋庄吉は子供ながらも、お金に困っている人を見ると、惜しみなく与えていたと言い、この性格は死ぬまで変わらなかったとされます。



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1892年(明治25年)、まじめに家業に取り組まない梅屋庄吉を見かねて、養父は、壱岐市勝本浦の士族で、香椎岩五郎の次女・トクを、養女に迎えました。
将来的には、梅屋トクと、梅屋庄吉を結婚させようとも考えていたようです。

1893年(明治26年)、米穀相場で失敗すると、店などを失います。
そして、中国に渡るとイギリス人から写真技術を学んだ中村トメ子と暮らし、香港に落ち着いて写真館を開き、貿易商として成功して行きまました。

1897年(明治27年)、一旦、長崎に戻ると、梅屋庄吉(27歳)と、梅屋トク(20歳)は、結婚して養父らを安心させました。
しかし、すぐに、梅屋トクらを残して長崎を離れ、また香港に戻っています。

1895年(明治28年)、中国革命を目指していた孫文と、共通の知人である英国人医師ジェームス・カントリー博士を通じて、香港で知り合います。
孫文29歳、梅屋庄吉27歳のときです。
貿易に明るかった梅屋庄吉は、武器の調達方法などの裏情報を孫文に教えただけでなく、購入費用まですべて負担したと言います。
一番困っている人にお金は使うと言う信念から「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す。」と言い、多額の資金援助をし、辛亥革命の成功に寄与しました。



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長崎の養父・養母も死去したことから、明治36年に、梅屋トクも香港に移住して、梅屋庄吉と、遅い新婚生活を始めています。
しかし、写真館が反乱軍の拠点になっていると密告され、1904年(明治37年)、シンガポールへ逃れます。
その際、荷物に入れていた映画フィルム4本にて「映画を上映しよう」と考えました。
その頃のシンガポールでは、政情不安などで娯楽も乏しかったことから、仮設の映画でも大人気になったと言います。
また、孫文が結成していたシンガポールの秘密結社「興中会」の協力もあり、今度は、梅屋庄吉が助けられました。
こうして、梅屋照相館シンガポール店では、パテー社製の映写機と映画フィルム4巻の上映を行い、映画界でも成功を納めます。
莫大な資金を得て、1905年(明治38年)に日本に帰国すると、日活の前身であるM・パテー商会を東京に設立しました。
本格的に映画事業に取り組むと、半額クーポンなどの斬新なアイデアで得た多額の資金を、孫文の革命に投じました。
明治43年、白瀬中尉ら南極探険隊が出発すると撮影班を同行させて映画撮影を行っています。

1911年(明治44年)、武昌蜂起となると、独立を訴える辛亥革命が起こり、アメリカにいた孫文(45歳)は、中国に帰国します。
このときも、梅屋庄吉は、撮影隊を派遣して、辛亥革命の記録映画を製作し、上映しました。



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1923年(大正元年)、孫文は、アジアで最初の共和制をとりいれた「中華民国」を南京で宣言しましたが、清朝の旧勢力が激しい抵抗を繰り返したため、2ヶ月ほどで、大統領の座を袁世凱に譲っています。
その袁世凱は皇帝となって独裁政治を始めたため、孫文は、1913年(大正2年)、日本に亡命し、犬養毅を頼っています。

その後も梅屋庄吉は孫文を支え、1915年(大正4年)には、孫文と宋慶齢(ソン・チンリン)との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で開催もしています。
この結婚を結び付けたのは、梅屋トクで、宋慶齢とも強いきずなができたと言います。

1925年(大正14年)、孫文が逝去したあと、1929年(昭和4年)には、南京に設置した孫文像を寄贈しました。
なお、宋慶齢は、太平洋戦争後に中華人民共和国が設立されると、中央人民政府副主席を務めて政治に貢献しました。
1981年、88歳で死去する約2週間前には「名誉国家主席」の称号を送られています。

梅屋庄吉は、広田弘毅外相から頼まれて、訪中する直前に、別荘がある千葉の外房線・三門駅にて倒れ、1934年(昭和9年)に65歳で死去しています。



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2011年、辛亥革命100周年を記念して、中国政府から長崎県に、日中友好のシンボルとして「孫文と梅屋トク夫妻三人像」(トップ写真)が、寄贈されました。

NHK歴史秘話ヒストリアでも、2020年4月にテレビ放送されることになっています。



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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