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馬関とは、山日県下関のことで、下関の古い名称である。
赤間関(あかまがせき)を赤馬岡とも書いたことから馬関と称された。
文久3年(1863年)長州藩は覇夷を実行するため、他藩にさきがけて下関海峡(馬関海峡)を往来する外国船に対して、2度に渡り砲撃を行った。
しかし、翌月に近代的装備を備えた列強から反撃され、長州藩はあえなく敗退。
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さらに翌年には、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊 17隻 による大規模な攻撃を受けた。
この戦いが「馬関戦争」で、長州藩は大打撃を受け、高杉晋作らは攘夷が困難であることを実感。
以後は、積極的に西洋の最新兵器を購入するなどして、やがて薩摩藩と薩長同盟を結び、討幕へと傾いて行った。
なお、現在の下関市は、明治22年の市制施行当初「赤間関市(あかまがせきし)」として発足した。
(写真出典) 山口県庁
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