青木昆陽~ひとりでも多く救うために 大飢饉と闘った人たち

青木昆陽



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青木昆陽(あおき-こんよう)は、元禄11年5月12日(1698年)江戸日本橋の魚問屋に生まれ、農学者としてサツマイモの栽培普及に尽力し、蘭学者としては後に蘭学を志す学者に影響を与えた人物である。
甘藷先生や芋神さまと呼ばれ、享保の改革を裏で支えた昆陽は、どんな功績を残したのかを見てみたい。

学者としての昆陽

魚問屋の息子だった昆陽は、両親の反対を押し切り22歳の時に京都の伊藤東涯に入門した。
昆陽は京都で学ぶ傍ら、儒学の他に本草学(ほんぞうがく)という学問を知る。
本草学は、東洋で発達し医薬を利用目的とした植物、動物の効能を研究する学問である。



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昆陽は、東涯のもとで二年ほど本草学に打ち込み、江戸に帰ってもその知識を駆使して両親を看病したという。
本草学は、薬用植物の栽培方法も研究するため、この経験がそのままサツマイモの栽培に活かされたことになる。
江戸に戻った昆陽は、私塾を開き研究を進める中で、懇意にしていた江戸町奉行与力の加藤枝直の推挙によりその上司、大岡忠相(おおおか-ただすけ)に登用され、学者での世界が大きく開くことになる。

将軍吉宗に献じた蕃藷考

与力の加藤は日頃から、昆陽の親孝行で研究熱心ぶりに一目おいていて、「小さな塾の師匠にしておくにはもったいない人物だ」と思っており、大岡に昆陽の登用を上申した。
大岡は、昆陽の人物を見極めるため論文を書かせたのだが、それが蕃藷考(ばんしょこう)である。
蕃藷考は、サツマイモの栽培方法や害虫に強いことなど、救荒作物としての有用性を説いた内容だった。
大岡は、それを読み、非常に喜んだがサツマイモの栽培に関しては幕府内にも否定的な考えも少なからずあり新井白石(あらい-はくせき)は、サツマイモには毒があると栽培には反対していた。
しかし、八代将軍徳川吉宗に、享保の改革でサツマイモの栽培に力を入れることを決定させたのは蕃藷考であり、ひとりでも多く飢えに苦しむ民を救いたいという昆陽の一念でもあった。

サツマイモの試作始まる

享保の大飢饉は、冷夏や長雨で西日本を中心に大凶作をもたらしているが、伊予の大三島(愛媛県今治市)ではサツマイモが栽培されていたために、餓死者を出さなかった実例があった。
吉宗や大岡は、サツマイモの有用性はわかっていたので、救荒作物としてのサツマイモは喉から手が出るほど欲しかったが、なにせ自然が相手のため栽培実績がない関東では、どこまで育つかわからない。
しかし、事は急を要するため吉宗は昆陽に全てを託す。
試作地は、幕府直轄の小石川薬園、幕張や九十九里(千葉県)が、大岡の尽力により確保され試作が始まった。
プロジェクトリーダーに指名された昆陽だったが、もし失敗すれば自分を指名してくれた吉宗や大岡の期待を裏切ることになるし、反対派には何を批判されるかわかったものではない。
薩摩藩から種芋1500個が届き、いよいよ昆陽の孤独な戦いが始まる。
ところが、栽培に取りかかろうとする中、江戸の寒さで種芋に霜が降り、その多くを腐らせてしまったのだ。
「関東では採れないのではないか」昆陽に最悪の事態が頭によぎったが、使える物を分け、自ら試作地に向かい、残った種芋を植えた。
なんとか種芋を植えたことは植えたのだが、作物は放っておいてはいけない。
種芋から出た蔓を取り、それを植え替えなければいけなく、また監視状態も怠らなかった。
そして享保20年(1735年)11月、享保の大飢饉から3年、畑から大きなサツマイモが採り出され、前例のない栽培は成功した。
それは学者として、自ら志したものは間違いではないことが証明された瞬間でもあった。
小石川薬園があった現在の小石川植物園に、甘藷試作跡の碑が立っている。(文京区白山3-7-1)

試作後の昆陽

幕府は、試作成功を見て本格的に関東一帯で栽培を始めた。
試作後の昆陽は、元文4年(1739年)に幕臣の身分となり、それからは幕府に仕える学者として活動し、サツマイモの栽培方法や食べ方などを記した甘藷之記(かんしょのき)を一般向けに発表し、サツマイモ栽培からは離れていくことになる。

将軍吉宗の漢訳洋書輸入の緩和

吉宗は、学問を奨励するなかでキリスト教に無関係な物に限り、漢訳洋書の輸入緩和を行っている。
漢訳洋書は、西洋の言語の書物を中国語に訳したものである。
江戸時代後半になると、蘭学という言葉がキーワードになるが、この頃は西洋の言語が学ばれていなかったので、中国語を日本語に訳して書物を使った。
西洋に関心の強かった吉宗の改革の一環である。
吉宗は、昆陽と野呂元丈に蘭学を習得させ、これにより近世から近代の日本は、西洋の強さを意識し、追い付き、あわよくば追い越そうとしていく時代が始まったのである。

昆陽たちが遺したもの

では、後に起こる天明の大飢饉や天保の大飢饉はどうだったのだろうか。
天明、天保(飢饉)は共に、東日本で猛威を振るった飢饉である。
昆陽たちの努力で、江戸周辺ではサツマイモにより救われた命は多かったといわれている。
しかし、サツマイモは温暖な気候でよく育つ作物である。
加えて、この頃は地球レベルで火山の噴火が立て続けに起こっていて、日本でも岩木山や浅間山が噴火し、異常気象の引き金にもなった。
したがって、残念ながら米も育たない中で、被害が大きい東北までサツマイモが行き届いたということは、なかったようである。
次は、これを教訓に高野長英(たかの-ちょうえい)が、寒さに強いジャガイモの普及に尽力したが、蛮社の獄を見るように、このときの日本は一人の蘭学者の説くことなどは聞く耳を持たない社会になっていたのは残念に思う。
現代を生きている人、特に年輩の方から「芋は食べるものがない時の物だ」という言葉を聞いたことがあるのだが、事実、太平洋戦争(たいへいよう-せんそう)後半から、終戦直後にかけての食糧難を救ったのは、サツマイモだったと聞く。
飽食の時代にあって、このように奮闘した人物がいたことを、頭の片隅にでも置いておいても損はないかもしれない。



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青木昆陽、明和6年(1769年)10月12日、死去、享年72歳。
目黒不動(龍泉寺)に昆陽の墓があり、毎年10月28日には彼を偲び「甘藷祭り」が開かれる。(目黒区下目黒3-20-26)

(寄稿)浅原

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