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幕末の慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いの最終局面で、楠葉台場(くずはだいば)が登場致します。
この楠葉台場にて、果敢に戦った雄の一人に、佐々木只三郎公がおられます。
京都近江屋にて、坂本龍馬公と中岡慎太郎公を暗殺したとされている京都見廻組の与頭であり、指揮官でもあった人物です。
佐々木只三郎(ささき-たださぶろう)公は天保4年(1833年)、会津藩士・佐々木源八公の三男として、会津に生を受けました。通称は唯三郎とも云われております。
兄に会津藩公用人、手代木直右衛門公がおります。
藩の師範、羽嶋源太公に神道精武流を学び奥義を極め、また槍を沖津庄之助公に学び熟達し、若い頃から槍刀に非凡な才能を示していたそうです。
その腕は「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めていたと伝えられている程です。
安政6年(1859年)、只三郎公が27歳のとき、幕府御家人、佐々木矢太夫公の養子となったとされており、御書院番与力に任じられたと云われております。
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その後、京では京都守護職を務める会津藩が中心となり、長州藩をはじめとする尊攘過激派らによる反幕の動きを抑える為、幕府が動きます。
幕府は新たに京都に治安維持部隊を新設。それが京都見廻組でした。
元治元年(1864年)、禁門の変の戦火が迫る6月16日に、只三郎公は見廻組与頭勤方の一人に任命されます。
しかし禁門の変の際、見廻組の隊士の大半はまだ京へ到着しておらず、只三郎公ら与頭勤方4人と浅尾藩士らが参戦。
これが見廻組の初陣だったと云われております。
見廻組も新選組と同じく京都市中巡察を行うことになり、当初は任務が同じであることから、両者は対立することもありましたが、その後はお互いに提携し、巡察のコースを分担したり等、互いに京の都を守っていくこととなります。
そして慶応元年(1865年)12月には、只三郎公は見廻組与頭に昇格し、実質的な実務を取り仕切ることになってゆきます。
また只三郎公は剣豪でありながら、和歌も愛したといわれており、現在でも只三郎公が作ったといわれる和歌が、いくつか残っております。
そんな只三郎公ですが、更なる戦火へ身を投じていくこととなります。
慶応3年(1867年)、王政復古の大号令後、一度大坂へ下った京都見廻組ですが、慶応4年(1868年)1月2日、只三郎は400人程の隊士を率い鳥羽方面に進撃。旧幕府軍と薩摩藩とが衝突し、鳥羽伏見の戦いが起こります。ついに戊辰戦争開戦の火蓋が切って落とされました。
只三郎公も鳥羽、富ノ森で奮戦しますが、 1月6日、只三郎公は橋本方面での戦闘中に、腰部に銃弾を受けてしまいます。
そのまま大坂へ搬送される只三郎公ですが、徳川慶喜公が大坂城から開陽丸で江戸へ撤退した為、旧幕軍は大坂城へ留まることもできず…
そんな中、只三郎公は紀州藩を頼り逃亡する中、1月12日に息を引き取りました。享年36歳。
紀三井寺で亡くなったとも、碇泊中だった富士山丸の艦内で没したとも云われております。
坂本龍馬公に関わる暗殺者としてのイメージが強い佐々木只三郎公。ですが本来の姿は、忠実な幕臣であり、実直に徳川を支えた武士の一人でありました。
「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしの しら菊のはな」
和歌を愛した只三郎公らしい、美しい辞世の句が残されております。
そんな佐々木只三郎公らが最期まで懸命に戦った土地、楠葉台場。
この楠葉台場にて、鳥羽伏見の戦いの戦死者の皆様へ向け、鎮魂の想いで開かれる催しが、11月3日に開催されます。
我々、乙訓戦国つつじは鳥羽伏見の戦いの史実に基づいた演劇を、披露させて頂きます。
●楠葉台場de盆踊り●
【日程】11月3日(土)
【場所】楠葉台場(最寄り駅・京阪電車 橋本駅 徒歩約6分)
【ステージ出演時間】12:00~12:30(12:25~12:55へ変更があるかもしれません)
我々も鎮魂の想いを込め、演じさせて頂きます。
楠葉台場にて、初のイベント開催となっております。是非お越しくださり、鳥羽伏見の戦いの面影を、その肌で感じて頂けたらと思います。
下記は、会津にある佐々木只三郎の墓。
(寄稿)在原 叶
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