タグ:会津藩
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沖田総司とは
沖田総司(おきたそうじ)は、陸奥・白河藩士・沖田勝次郎(足軽頭)の嫡男として、江戸の白河藩邸(東京都港区西麻布)にて生まれた。
生年に関しては、1844年、又は1842年のどちらかと言う説があり、生…
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大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、播磨赤穂の赤松村(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の長男として、1833年(天保4年)2月25日に生まれた。幼名は慶太郎で、成人すると小林慶太郎と名乗っている。
3歳の…
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山川健次郎(やまかわけんじろう)は嘉永7年(1854年)生まれ-昭和6年(1931年)没。
日本国内に設置された7つの帝国大学のうち東京帝国大学、京都帝国大学総長、九州帝国大学の初代総長に任ぜれている。
さ…
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秋月悌二朗(秋月悌次郎、あきづきていじろう)は、幕末の会津藩の藩士で、1824年7月2日、丸山四郎右衛門(丸山胤道(かずみち)150石の次男として会津若松城下に生まれた。
会津藩校・日新館の成績は抜群で、飛び級で通…
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山本八重(新島八重)とは
山本八重は、会津藩士・山本権八・佐久(さく)夫妻の子として、幕末の1845年12月1日に生まれたが、戊辰戦争の渦に巻き込まれることになった。兄は山本覚馬。
父・山本権八は、会…
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京都守護職となった松平容保の会津藩が、京都を警護した際に、会津藩士・山本覚馬も京に上った。
しかし、山本覚馬は、まもなく失明状態となり、失明状態の山本覚馬は、公用の職から身を引いて、清浄華院において静養していたよう…
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樋口うらは、会津藩勘定方・樋口家の娘であったと考えられるが、嫁ぎ先の山本家との関係、また、樋口家が、どの会津藩家臣の樋口氏に当たるのか、詳細は不明である。
1857年、山本覚馬と樋口うらが結婚。山本覚馬は山本…
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山本覚馬(やまもとかくま)は会津藩・砲術指南役・山本権八の長男として鶴ヶ城近くの武家屋敷にて1828年1月11日誕生。母は佐久。
山本家の遠祖は甲州流軍学、武田信玄の軍師でも知られる山本勘助が祖であると言われる。
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今更ながら筆者は、「下手な横好き」という言葉が正しく相応しい素人の歴史愛好家である一方、30年前以…
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蔦屋重三郎とは
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、江戸時代中期の版元(出版人、今でいうプ…
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