タグ:幕末
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12代・和泉守兼定(いずみのかみ-かねさだ)による土方歳三の愛刀は2尺3寸1分6厘。
会津の名刀匠である兼定は、会津御抱鍛冶であり、会津藩主・松平容保の上洛に従って、京都で刀を作っていた。
ただし、京に行っていた…
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小島資料館
試衛館時代の近藤勇・土方歳三・沖田総司らが、度々出稽古に訪れていた小野路(東京都町田市)の名主が、この小島鹿之助さんでした。
収入が乏しかった試衛館にとって、出稽古は貴重な収入源でもありました。
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土方歳三資料館
東京都日野市の国道20号の日野バイパス近く、多摩モノレールの「万願駅」からほど近いところに「土方歳三資料館」があります。
そうです。新選組の副長として京だけでなく、近藤勇の死後も、会津・函館と旧幕…
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新選組の副長・土方歳三と、局長・近藤勇。
若きリーダーである近藤勇を、一番良く理解した土方歳三が支えたと言う。
普通に新選組を語るのであれば、局長であった近藤勇が先に来て「近藤勇と土方歳三」と言う風になると存ずる…
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平野国臣(ひらの-くにおみ)は、福岡藩士(足軽)である平野吉郎右衛門の二男として、1828年5月12日に生まれた。
平野国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になると、1845年に江戸詰めとなっている。
福岡へ戻ると…
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正親町公董(おおぎまち-きんただ)は、公家・中山忠能の子として、1839年1月24日に生まれた。
その後、正親町実徳の養子になっている。
なお、父・中山忠能は公武合体派の公家として活躍したことから、尊王…
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七卿落ち(しちきょうおち)について詳しくご紹介したいと思います。
七卿落ちと言うのは、中川宮・薩摩藩・会津藩によるクーデターである、1863年8月8日の八月十八日の政変にて失脚した公家7人が、京都から長州に逃れ…
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益田親施(益田右衛門介)は長州藩永代家老・益田元宣の3男(次男とも?)として1802年に生まれた。通称は幾三郎、弾正、のち越中、右衛門介。
母は正室である益田房清の娘・益田孝子(美智子とも?)
益田親施(ま…
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今更ながら筆者は、「下手な横好き」という言葉が正しく相応しい素人の歴史愛好家である一方、30年前以…
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蔦屋重三郎とは
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、江戸時代中期の版元(出版人、今でいうプ…
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