渋沢篤二の解説~渋沢栄一の跡取りも廃嫡騒動になった真相は?

渋沢篤二



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渋沢篤二とは

渋沢篤二(しぶさわ-とくじ) は、1872年(明治5年)に、神田神保町にて生まれました。
父は、渋沢栄一で、母は、渋沢千代です。
1862年に生まれた兄・渋沢市太郎がいましたが、夭逝していたため、渋沢篤二は渋沢家の嫡子として、育てられたようです。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」(2021年)では、俳優の泉澤祐希さんが、渋沢篤二を演じられます。(少年期は、齋藤絢永さん)


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1882年(明治15年)に、渋沢千代が、コレラに罹患して亡くなると、9歳だった渋沢篤二は、9歳年上の姉・渋沢歌子と、夫である法学者の穂積陳重が、面倒をみたようです。
1883年には、渋沢栄一も、伊藤兼子を後妻に迎えました。
そのような経緯もあり、渋沢篤二は、しだいに、遊びの世界に夢中になったと考えられます。
まだ貴重で高価だった、自転車を乗り回したり、乗馬をしたりと、お金には困らなかったようです。
学習院を経て、熊本の第五高等中学校に在学中の明治25年(1892年)、大問題を起こします。
諸説ありますが、学校をさぼっては女性と遊びほうけていたようで、熊本から連れ戻されると、渋沢栄一の故郷である、血洗島村にて、謹慎処分となりました。
表向きは、病のため退学して、血洗島にて静養に努めたと言う事になっていたようです。
しかし、大事な跡取りですので、家庭教師などが付けられて、勉強もさせられていたとされます。


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その後、明治28年(1895年)、22歳になった渋沢篤二は、公家華族・橋本実梁の娘である橋本敦子(16歳)と結婚しています。
福住町の渋沢邸にて暮らしたようで、この橋本敦子との間には、のち、渋沢栄一の後を継ぐ、渋沢敬三を含めて3人の男子に恵まれています。

明治30年(1897年)、父・渋沢栄一が自ら営業主となって、渋沢家別邸の倉庫を利用して「澁澤倉庫部」を発足させると、支配人(部長)として渋沢篤二が仕事につきました。
でも、渋沢篤二は、義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育など、趣味に明け暮れていた模様です。

ただし、明治42年(1909年)からは、澁澤倉庫の取締役会長に就任しています。
しかし、明治44年(1911年)5月、気に入った芸者・玉蝶を妻にするべく、渋沢篤二は、妻・橋本敦子と離婚して、新橋の芸者・玉蝶を家に入れようと考えます。
このスキャンダルは、新聞にも掲載されたことから、父・渋沢栄一は、渋沢篤二の廃嫡を決め、澁澤倉庫取締役会長も退任させられました。(これも、表向きは病気が理由になっている。)
ちなみに、渋沢篤二の子・渋沢敬三が、後継者に決定しています。
なお、妻・橋本敦子は、渋沢敬三ら3人の子供を連れて、三田綱町の屋敷を出ています。
その後、数年間は、本郷西方町、高輪車町、駒込神明町など、小規模な借家を転々とした模様です。


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ところが、廃嫡は、渋沢篤二にとって幸いだったようで、とにかく、お金には困らないので、むしろ、自由に好きな事が、できるようになったようです。
「生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」ともされます。
ともあれ、一度は退任となった、渋沢倉庫の取締役に再就任するなど、結局は、渋沢家の事業と、かけ離れることはできませんでした。
1932年(昭和7年)、父・渋沢栄一逝去の翌年にあたりますが、渋沢篤二は、玉蝶と20年間暮らした白金の自宅にて、死去。享年61。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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