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福田英子とは
福田英子(ふくだ-えいこ)は、岡山藩の武士である景山確(たかし)の娘(2女)として、岡山の野田屋町にて1865年11月22日に生まれた。母の名は楳子(うめこ)。
旧姓は景山英子。
当時の景山家は池田家の家老に仕える下級武士で、17俵2人扶持で、景山確は祐筆、役小姓などを務めていた。
英子が4歳のとき、明治維新となり、廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だったと言う。
その後、父・景山確は巡査となったが、月給は5円と収入が低く生活は苦しいばかりであったようだ。
寺子屋教師をつとめていた母・楳子は、岡山県が開設した女子教訓所という女学校の教師として招かれ、のち、女紅場の校長になっている。
このように教育熱心な家庭だった事もあり、英子も幼少のころより勉学に励み、利発に育ったようだ。
明治9年(1876年)に岡山県立研智小学校に入学し、1879年に小学校を卒業した15歳の時、成績優秀だった為、そのまま小学校の助教員として母校の教壇に立った他、母・兄とともに私塾を開いて子供達を教育したと言う。
16歳で来た縁談も、愛のない結婚を厳に拒絶した。
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明治15年5月13日~14日(18歳の時)、「岡山県女子に告ぐ」と言う演説を行った岸田俊子(中島湘烟)に刺激されて、女性権利の拡張に目覚め、自由民権運動を志すことになった。
明治16年、私塾・蒸紅学舎を設立し、貧しい家の婦女子らに読み書き算数を教えた。また「人間平等論」の演説をして女闘志と呼ばれている。この頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約した。
明治17年(1884年)、「国家の大事を男子だけに任せず、女子もまた自らの意志で行動しよう」と説いた蒸紅学舎は閉鎖を命じられ、専制政府の弾圧を身をもって感じた英子は、一身をささげて戦おうと決意して、母にも告げず故郷を出奔し大阪へ走った。
明治18年、自由党に接近し、大井憲太郎らの朝鮮改革運動に紅一点で参画。自由党総裁・板垣退助も紹介を受けている。小林樟雄らが朝鮮で独立派を助けるクーデターを計画すると、朝鮮への爆発物運搬などに協力した罪で長崎で逮捕されて投獄された(大阪事件)。
明治22年2月、憲法発布の大赦によって出獄すると、獄中で恋愛関係となり内縁関係となった22歳年上である大井憲太郎の子・龍麿を産むが、親友である清水紫琴と大井憲太郎との愛情関係を知って未婚の母となった。別れるに当たって500円を出資させ、東京神田に女子実業学校を設立している。
明治25年、アメリカ帰りの万朝報記者で社会運動家の福田友作と再婚して3男をもうけた。
明治33年、福田友作との生活は非常に貧しく、福田友作が胸を患って没すると、寡婦に経済力を付ける角筈女子工芸学校を設けて実業教育を行うが、うまく行かず2年で廃校。また、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲。
自由民権運動が勢いを失うと堺利彦らの平民社員と交流し、女性解放を社会主義運動を開始。
日露非戦を唱えた平民社が解散した後も、石川三四郎や安部磯雄らと日本初の社会主義女性新聞である月刊誌「世界婦人」を明治40年に創刊。
弾圧を受けながらも、自宅を編集室として2年6ヶ月間発刊したが、東京地裁で発行禁止判決。
またこの間、婦人参政への請願、足尾鉱毒事件では田中正造を助けて農民救援活動も展開しているが、ほどなく石川三四郎との交際も解消している。
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NHKのドラマ「足尾から来た女」では主人公の新田サチが、田中正造の仲介で東京へ出て、社会運動家の福田英子宅で家政婦として働くことになるが、警察からスパイ活動を命じらていると言う設定になっている。
晩年は不遇で呉服行商で生活を支えたと言うが、婦人解放運動のさきがけとして知られ山本八重同様に「東洋のジャンヌ・ダルク」と称される。
昭和2年5月2日死去。63歳。著書に自伝『妾の半生涯』(明治37年刊)がある。
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