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松永安左ェ門(まつなが-やすざえもん)は、明治8年12月1日に、長崎県壱岐の商家・二代目松永安左エ門の長男として生まれた。
幼い頃から家業の酒造業や呉服・雑貨・穀物の取り扱い、水産業などと言った交易を見て育つ。
福澤諭吉の「学問のすすめ」には痛く感激し、第十七高等小学校を卒業すると、明治22年に東京へ出て慶應義塾に入学した。
16歳の時にはコレラに罹ったが、幸いにも助かっている。
明治26年に父が死去したため、故郷に戻ると家業を継ぎ、スルメや干しアワビなどを中国へ輸出するなどした他、所有する船で博多、長崎、平戸、対馬などにも行き、見聞を広めている。
しかし、手広い経営は大きな負担となっていたようで、商売はすべて譲渡して、土地の管理運営だけに家業を絞り、21歳の秋に再び慶應義塾に戻っている。
そして、福澤諭吉の朝の散歩の供をするようになり、福澤諭吉の婿養子である福澤桃介とも知遇を得ている。
卒業まであと1年である明治31年に、学問に対して興味が薄れたことを福澤諭吉に告白すると「卒業など大した意義はないから、社会に出て働くがよかろう」と勧められて退学し、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。
結核にかかり体調を崩していた福澤桃介が貿易会社「丸三商会」を設立すると、神戸支店長として勤務しないかと誘われて、日本銀行を1年で退職し、神戸や大阪などにて材木商や石炭業に携わった。
丸三商会が倒産すると、そのまま神戸にて1901年(明治34年)に福松商会を創業し、その3年後である29歳のときに、大分県中津市出身の竹岡カズと結婚した。
石炭販売によって財を成すと、株式投資にのめり込んだが、日露戦争後の株価暴落にて一文無しとなる。
苦労をする生活をしたようだが、1908年(明治41年)に佐賀にあった広滝水力電気の監査役に就任し、電力事業と関わることになった。
1909年(明治42年)8月、福澤桃介が福博電気軌道株式会社(福岡市の路面電車)を設立し、社長に就任すると、松永安左エ門が専務となる。
当時の鉄道会社は、電車に使用する電力を確保する必要性が有り、電力会社が余剰電力を有効に使う為、鉄道を建設する事も多かったのだ。
そして、路線規模の拡大に伴い電力が不足したため、いくつもの電力会社を合併する必要性に迫まれ、明治45年に九州電気と合併すると、社名も九州電燈鉄道とした。
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1917年(大正6年)には、第13回衆議院議員総選挙に立候補すると当選しているが、次の選挙では落選した。
さらに1922年(大正11年)に関西電気と合併して東邦電力を設立すると副社長に就任し、九州北部、近畿、中部と1府11県に電力を供給した。
ちなみに社長は、九州電燈鉄道出身の伊丹弥太郎。
大正12年に起こった関東大震災で被害を受けた東京や横浜の電力会社は、松永安左エ門に助けを求めたと言う。
大正末期には東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5社が五大電力会社と呼ばれている。
1927年(昭和2年)、子会社の東京電力と東京電燈が合併すると、松永安左ェ門は取締役に就任。
民間主導の電力会社再編を主張し「電力王」と呼ばれた。
満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争となると、電力事業を国家が統制しようとしたため、反対した松永安左ェ門は軍閥に追随する官僚を「人間のクズ」と発言。
そのため「天皇の勅命をいただいている事項への最大な侮辱」と大問題となり、新聞に謝罪広告を掲載するに至っている。
こうして、1938年(昭和13年)には「国家総動員法」が成立すると「電力管理法」・「日本発送電株式会社法」・「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」・「電気事業法」が新たに制定されて、1939年(昭和14年)には国策企業の日本発送電株式会社が設立されて、東京電燈などは1942年(昭和17年)3月に解散した。
以後、 松永安左ェ門は所沢の柳瀬荘にて過ごし、茶道三昧であったと言う。
戦後の昭和21年には小田原に老欅荘を建て移住し、所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈している。
GHQの占領政策で、日本発送電会社の民営化が課題になり、電気事業再編成審議会の会長に選出される。
74歳の松永安左ェ門は、反対の声を押し切って、9電力会社への事業再編による分割民営化を実現させ、日本の特殊な電力会社事情がこの時作られてしまった。
さらに電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴び「電力の鬼」と呼ばれるようになっている。
晩年は電力中央研究所を設立し、自ら理事長に就任。燃料も石炭から石油へと設備を拡充させる一方で、原子力へも目を向ける。
昭和31年には日本の政・財・学・官界のトップなどで構成する「産業計画会議」を自ら主催し、東名高速道路・名神高速道路の計画や、多目的ダムの沼田ダム計画、東京湾の横断道路計画、新東京国際空港計画、原子力政策などにも寄与した。
1959年(昭和34年)、自宅敷地内に松永記念館本館を造り、収集していた古美術品を一般公開する。(現在は閉館)
1971年6月16日、肺真菌症により信濃町の慶應義塾大学病院にて死去した。95歳没。
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