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二宮尊徳(にのみや-そんとく)は、相模国足柄上郡栢山村(神奈川県小田原市栢山)の百姓・利右衛門の長男として、1787年7月23日に生まれた。
母の名はよし。
通称は金治郎(きんじろう)だが、金次郎と表記されることが多い。
元々は豊かな農家だったようだが、1791年8月5日、金治郎が5歳の時、酒匂川の坂口堤が決壊し、金治郎が住む東栢山一帯が濁流に押し流され、父・利右衛門の田畑も流失したと言う。
過労により父・利右衛門が14歳のときに死去し、2年後には母も亡くなった。
そのため、伯父・万兵衛の家で世話になることになり、この頃から、寝る間も惜しんで読書をしたと言う。
明かりの油代がもったいないと叔父に言われると、荒地に菜種を蒔いたと言う。
そして、収穫した種を菜種油と交換し、燃料を自ら調達して勉学を続けた。
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その傍ら、朝暗いうちから夜遅くまで働いては、荒地を復興させて農業に励み、また田畑を小作に出すなどして、家の収入増加を図り、20歳で生家を再興したと言う。
薪を背負いながら本を読んで歩く姿が有名になり、全国各地の小学校に銅像も多数ある。
その後、二宮尊徳は地主として経営を行う傍ら、その才を買われて小田原藩の家老・服部家にて財政再建を果たし、藩内で有名になる。
小田原藩では一斗枡を改良して規格を統一させ、役人が不正な枡を使って量をごまかして横領するのを防いだと言う。
そして、小田原藩主・大久保家の分家である旗本・宇津家が知行していた、下野国桜町領(栃木県真岡市)の経営を任される事になり、のちには東郷陣屋(真岡市)の天領(真岡代官領)でも手腕を振るった。
この農村復興政策は模範とされ、のち、日光山領の経営も行った。
そして、北関東から東北にかけ、各藩の農村総合的復興事業を行い、多くの農村や藩を貧困から救うと言う素晴らしい成果をあげた。
救済した村は、600ヶ村以上に渡り、小生の親戚宅(茨城県筑西市)にも、農業指導で訪れた二宮尊徳が1泊したと言う話を聞いたことがある。
現在も多くの思想が実践されている。
幕臣となった二宮尊徳は、1856年10月20日、下野国今市村(栃木県日光市)の報徳役所にて没した。70歳。
戒名は誠明院巧誉報徳中正居士。
ちなみに、二宮尊徳の本当の呼び名は、にのみや-たかのりと言う。
しかし、訓読みされることが多い為、一般的には、にのみや-そんとくとして知られる。
尊徳記念館
二宮尊徳の生誕の地栢山には、小田原市の「尊徳記念館」がある。
資料館への入館は有料だが、敷地内にある移築されている生家を見るだけであれば、入館料などは掛からない。
道路の反対側にある駐車場も無料。
行き方・アクセスだが、下記の地図のポイント地点が駐車場となる。
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