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脇坂安董(わきさか-やすただ)は、播磨龍野藩の第7代藩主・脇坂安親の次男として1767年6月5日に生まれた。
母は正室・上田義当の娘。
兄・脇坂安教が早世したため嫡子となった。
この脇坂家は、賤ヶ岳の七本槍の1人と称される豊臣秀吉の家臣・脇坂安治から繋がる家柄であるが、外様となる。
1784年、父・脇坂安親が隠居したため、脇坂安董(脇坂淡路守)が家督を継いだ。
正室は松平定休の娘・衛。
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徳川幕府において、外様は幕府の要職に就けないのが常であったが、脇坂安董は言動も爽やかで、男ぶりも良かったとされ、将軍・徳川家斉によって異例ながら1791年に寺社奉行に登用された。
そして、脇坂安董は谷中延命院の大奥女中を巻き込んだ女犯スキャンダル事件や、西本願寺の教義をめぐる争論である三業惑乱の事件を裁いている。
このように僧侶を厳しく統制するなど、敏腕な裁きを見せた脇坂安董は、妾のことで讒言にあい失脚し寺社奉行を辞任した。
その後、龍野藩にて政に専念したが、16年後に将軍・徳川家斉によって再び寺社奉行に抜擢された。
またもや大奥の風紀が乱れていた為の抜擢とされている。
但馬出石・仙石家の家督相続問題や藩政にて、家老の仙石左京と仙石造酒が対立した仙石騒動では、徳川家斉より裁きを命じられ、評定所にて仙石左京ょ獄門とし、出石藩は3万石の減封、また、加担した老中・松平康任を失脚させた。
この事が評価されて、脇坂安董は、西丸老中格、将軍世子である徳川家祥付きに抜擢され、その後、本丸老中に昇進した。
江戸の智恵頭と唄われた脇坂安董であったが、老中在職中である1841年2月24日に死去。享年74。
死去が突然であったため、毒殺説もある。
家督は長男・脇坂安宅が継いでいる。
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