スポンサーリンク
蔦屋重三郎とは
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、江戸時代中期の版元(出版人、今でいうプロデューサー)・地本問屋で「蔦重」(つたじゅう)とも言われる。
カルチュア・コンビニエンス・クラブが手掛ける、レンタルや書籍販売などを行う複合量販店チェーン「TSUTAYA」の名称も、蔦屋重三郎に由来するともされている。
2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)では、俳優の横浜流星さんが、主役として蔦屋重三郎を演じられる。
スポンサーリンク
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿・東洲斎写楽の浮世絵などの出版、朋誠堂喜三二・山東京伝ら黄表紙・洒落本の出版を行ったことで知られ、狂歌名は蔦唐丸(つたのからまる)と号し吉原連に加わっていた。
<注釈> 狂歌(きょうか)とは、社会風刺・皮肉・滑稽などを盛り込んだ短歌(和歌)の事で、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作していた。
蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)1月7日に江戸の吉原(新吉原)で生まれたと言う。
父・丸山重助は尾張出身だが吉原遊郭で勤務していたようで、母の名は津与。
しかし、幼いうちに喜多川氏に養子に出された。
1772年、江戸にて明和の大火(めいわのたいか)となった大火災が発生。(死者1万4700人、行方不明者4000人)
その後、重三郎(23歳)は1773年頃、新吉原五十間道で貸本・小売を手掛ける本屋「耕書堂」を開業した模様。
軒先を借りて販売していたとも言う。
そして、安永4年(1775年)ともされるが、吉原細見と言う遊郭ガイドブックの販売権利を得て、吉原大門の前に書店をオープンさせた。
吉原細見(よしわらさいけん)は、店ごとに遊女の名を記した案内書で、それまで鱗形屋孫兵衛が独占販売していたが、改定版を発売したとも考えられる。
また、折本仕立の細見を6文で売り出して評判を取り、細見蔦屋の名を高くした。
更には、地縁にて灯籠番付、俄の絵本などの吉原関係の草紙を中心に自社出版を始める。
また、1776年秋には吉原細見「籬の花」と言う自版を刊行開始。
利用者目線になり価格破壊、値段別、ランク別、場所別のガイドへと発展させ、年2回改訂版を出した。
また、序文を有名作家に書かせるなど、プロデュースも行っている。
1776年頃には、北尾重政・勝川春章などによる「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)を出版。
1777年頃から単独店舗を構えるようになり、店舗は通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、浅草寺・中梅園院地借りの市右衛門店など移転している。
スポンサーリンク
そして、1780年、蔦屋重三郎が30歳になった頃、鱗形屋(うろこがたや)が無くなり、吉原細見の出版権販売権を独占するようになり、売れっ子作家・朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の黄表紙を出版するなど一般書の版元としても出版事業を拡大して行った。
狂歌師・絵師らも動員し、洒落本・黄表紙・狂歌本・絵本・錦絵などヒット作を次々に発刊している。
天明3年(1783年)には地本問屋・丸屋小兵衛の株を買取って、一流版元が並ぶ日本橋通油町に進出。
<注釈> 株(かぶ)を買い取る出資者になると、その会社のオーナーになると言う事。
この1783年には浅間山の大噴火(天明大噴火)があり、天明の大飢饉も発生していた。
一方で、蔦屋重三郎は自ら狂歌師となって狂歌の集まりに積極的に参加。
スポンサーリンク
浮世絵の喜多川歌麿・栄松斎長喜・東洲斎写楽などを育て、鳥居清長・渓斎英泉・歌川広重らの錦絵も出版した。
天明6年(1786年)、江戸幕府の将軍・徳川家治が死去し、老中・田沼意次(相良城主)が失脚すると、松平定信による寛政の改革が始まった。
松平定信(白河城主)は徳川御三家の推挙を受け、田沼意次の政策をことごとく覆している。
1787年、江戸や大坂で米屋への打ちこわし「天明の打ちこわし」が発生。
1788年、田沼意次失脚などの政治風刺黄表紙が大ヒット。
しかし、寛政の改革による出版規制がはじまると、江戸では倹約ムードに包まれ吉原も不況に陥った。
娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり見せしめとして、寛政3年(1791年)には当時最高の作者である山東京伝の洒落本(しゃれぼん)が摘発され、蔦屋重三郎は財産の半分を没収される罰を受け資本力が低下した。
山東京伝は手鎖50日という処罰になっている。
一方で書物(かきもの)問屋に加入し、学問ブームもあって教育本などを全国へ流通させた。
<注釈> 書物は今で言う単行本に近く、地本は雑誌に近い印象。
浮世絵界の美人画ブームも到来し、相撲絵・役者絵も手掛けている。
寛政6年(1794年)、東洲斎写楽の役者絵(錦絵)を約140点出版。
1795年、本居宣長を訪ねると「手まくら」を江戸売出版したが、寛政9年(1797年)に蔦屋重三郎は死去。
享年48。
死因は脚気(かっけ)だと言うので、お米ばかり食べていた(裕福だった)と推測される。
スポンサーリンク
以上のように、蔦屋重三郎は時代の嗜好(しこう)を読み取り、適切な企画力ができ、商才は鋭敏、気骨もある人物で江戸文化の指導的役割を果たした。
前述のとおり作家では大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴など、浮世絵師では喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などと組み数々の話題作を手がけた。
この頃、江戸の本屋は約80軒ほどあったと言うが、その後の蔦屋(つたや)は江戸一流の版元として、番頭の勇助が2代目を継ぎ、明治時台の初め5代目まで続いたと言う。
・【世界が愛する】浮世絵師・東洲斎写楽の謎2つに迫る~べらぼう
・浮世絵師「歌川広重」と行く「東海道五十三次」の解説 人気の秘密はここにある
・本居宣長 古事記伝に込めた想いとは
・べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)【キャスト・出演者一覧リスト】NHK大河ドラマ2025年
スポンサーリンク
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。