【世界が愛する】浮世絵師・東洲斎写楽の謎2つに迫る~べらぼう

浮世絵



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江戸の浮世絵史にすい星のごとく現れ、急に姿を消した謎の天才浮世絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。

彼の描く役者のバストアップを描いた歌舞伎役者の大首絵は個性的でインパクトが強く、デビュー当時は多くの人々に衝撃を与えました。

しかし、東洲斎写楽の正体は謎に包まれており、彼が何者かわからない状態が長きに渡りました。
それだけでなく、才能があったにもかかわらず活動期間が極端に短かった理由も多くの人々の興味をそそっています。



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そこで今回は、大首絵で知られた東洲斎写楽の正体と活動期間が短かった理由に迫っていきます。

有名浮世絵師・東洲斎写楽の謎が2つある理由

江戸の浮世絵史にすい星のごとく現れた東洲斎写楽。

彼に関する素性がわからない理由と活動期間が10カ月程度と極端に短い理由は、やはり東洲斎写楽に関する史料が極端に少ないことが考えられます。

東洲斎写楽は、デビュー当時こそ多くの人を魅了しましたが、活動期間が10カ月程度ということから次第に多くの浮世絵師に埋もれ「忘れられた絵師」となっていきます。

そのため、「研究するに値しない」と位置付けられてしまい、東洲斎写楽の生涯や消えた理由に関する謎について、詳しく研究をする人も少なかったのです。

謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは?

東洲斎写楽は、今でこそ「4大浮世絵師」として国内だけでなく世界的に有名な浮世絵師となりました。

しかし、東洲斎写楽について本格的な研究がスタートするまでは、

  • 本名
  • 生没年
  • 出生地
  • 家族構成
  • 師匠
  • 弟子の有無
  • 等が長期間の間、謎に包まれていたのです。

    それまでにわかっていた東洲斎写楽についての情報と言えば、以下の内容でした。

  • 活動期間は寛政6年(1794)年5月から翌年の寛政7年(1795年)1月の約10カ月
  • 145点ほどの作品を世に送り出した
  • 版元は全て蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)の店
  • 作品発表時期は全4期
  • このように、東洲斎写楽本人の素性が一切不明のまま作品が発表されたことにより「謎の浮世絵師」と呼ばれるようになりました。

    世界の浮世絵ファンも魅了し続ける

    明治以降に、東洲斎写楽の作品は海を渡り、海外でも大きな反響を呼びました。

    東洲斎写楽に関する本格的な研究をヨーロッパで初めて行った人物として、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが挙げられます。

    ユリウス・クルトが東洲斎写楽の作品をドイツに持ち込み、日本文化や江戸文化を知らないまま東洲斎写楽の研究をまとめた「Sharaku」を書き上げたのです。

    結果、江戸文化や日本を知らないユリウス・クルトによる的外れな研究結果に触発された日本人研究家たちの目に留まり、東洲斎写楽が注目を集めるようになりました。

    東洲斎写楽の2つの謎

    東洲斎写楽の謎多き生涯や突然姿を消した理由のもまた、世界中の人々の興味をそそっています。

    ここからは、東洲斎写楽の2つの謎である

  • 東洲斎写楽の正体
  • 東洲斎写楽の活動期間が1年未満立った理由
  • を深堀りしていきます。

    謎1)東洲斎写楽の正体

    東洲斎写楽の正体は、つい最近まで多くの人々の注目の的でした。

    東洲斎写楽はいったい誰だったのか、これまで多くの知識人たちが数々の予想を立て、独自に研究を重ねてきました。

    全4期に分かれる作品群の発表ごとに作風が別人のように異なることから、

  • 前期と後期では別の人が東洲斎写楽を名乗って作品を描いていた
  • 版元である蔦屋重三郎本人説
  • など、予測の幅は様々。

    また、ヨーロッパにおける東洲斎写楽研究の第一人者ユリウス・クルトは絵師の歌舞伎堂艶鏡(かぶきどうえんきょう)とする等、研究家の間でも様々な憶測が飛び交うほどでした。

    さらに面白いことには、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家で浮世絵師の山村耕花(やまむらこうか)が朝日新聞に東洲斎写楽の捜索願いを出したことでも有名です。

    東洲斎写楽の正体が誰なのかを巡っては、明治・大正・昭和にのべ50以上の人物が正体として挙げられました。

    謎2)活動期間が短い理由

    東洲斎写楽がすい星のごとく現れ、約10か月で姿を消したという活動期間の短さもまた人々の心をくすぐりました。

    10カ月ほどの活動期間の間に約150点の作品を残しましたが、初期に見られたインパクトある絵柄はどんどんその形を変え、急速に人気は下火に。

    人気の低下が活動期間の短さにも影響することはこれだけでもわかりますが、ただ人気が下火になっただけではやや納得しにくいものです。

    東洲斎写楽の正体はほぼ確定

    現在の研究においては、東洲斎写楽の正体は阿波徳島藩須賀家のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)説が定説化しています。

    斎藤十郎兵衛という人物が存在したことは、以下の史料を以って明かとなりました。

  • 1824年(文政7年)の能番組と呼ばれる能のプログラムに、斎藤十郎兵衛という名前が掲載
  • 徳島藩が領有していた阿波・淡路二国の下級武士の報酬に斎藤十郎兵衛という名前が掲載
  • それだけでなく、浄土真宗の寺院・法光寺で斎藤十郎兵衛の生没年が記された過去帳が発見されたことからも実在した人物と判明します。

    過去帳によれば、斎藤十郎兵衛という人物は、1763年(宝暦13年)に生まれ、1820年(文政3年)に58歳で亡くなったとのこと。

    斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽に至った経緯

    斎藤十郎兵衛に関しては、1817年(文化14年)ごろに出版された江戸の文化人を地域ごとに紹介した「諸家人名 江戸方角分(瀬川富三郎・著)」という書籍からも確認できます。

    斎藤十郎兵衛は江戸・八丁堀在住の文化人として「[号]写楽斎 地蔵橋」と記されているのです。

    さらに浮世絵研究者・大田南畝(おおたなんぽ)が記した1790年(寛政2年)刊行の「浮世絵類考」には、斎藤十郎兵衛に関する記述が出版年ごとに加筆されていることも判明。

    この書籍は1818~1821年(文政元年~文政4年)ごろに式亭三馬(しきていさんば)によって加筆が加えられいます。

    そこには

    「東洲斎写楽号東洲斎、江戸八丁掘ニ住ス」

    という記述があり、江戸・八丁堀に東洲斎写楽と呼ばれる浮世絵師が住んでいることがわかります。

    さらに、1844年(天保15年/弘化元年)に学者の斎藤月岑(さいとうげっしん)が「浮世絵類考」に加筆した「増補 浮世絵類考」によれば、

    「東洲斎写楽 天明寛政中の人 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり 号 東洲斎」

    とあります。

    これにより、東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛と同一人物との裏付けができたと言えるでしょう。

    更に、加筆をした斎藤月岑は江戸・神田の町名主です。

    彼は博識のある人物として知られていただけでなく、現代でいうところの旅行ガイドブックの編著者で、リアルな記述で知られた人物ということからも、情報の信ぴょう性が高いことがわかります。

    斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽説の証人も登場

    さらに、戯作者・二代目 金沢竜玉(かなざわりゅうぎょく)こと奈河本助(ながわもとすけ)が所蔵していた「浮世絵類考」の写本には、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽という証言が書かれていました。

    それによれば、
    「東洲斎写楽は阿州(阿波国)の出身で、斎藤十郎兵衛だと栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)老人が言っていた」

    とのこと。

    栄松斎長喜という人物は、東洲斎写楽と同時代に活躍した浮世絵師の名前です。

    それだけでなく、栄松斎長喜も蔦屋重三郎版元の浮世絵師ということがわかっています。

    東洲斎写楽と同時期に活躍した人物の証言でかつ、同じ版元で活躍した浮世絵師の証言であるという書き込みこそ、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽という説を裏付けるものとして現在も語られています。

    史料が矛盾しているため情報に信ぴょう性の疑いも

    しかし、現在のように写真で証拠が残っているわけではありませんし、書き込み自体も100%信頼できるものかと言えば、疑う余地があります。

    中には、これだけの証拠があるにもかかわらず、斎藤十郎兵衛が実在した証拠はない、と言い出す人も現れます。

    また、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽であることを示す史料の年代に矛盾が生じています。

  • 1824年(文政7年)の能番組に記載されている
  • 過去帳によれば斎藤十郎兵衛が1820年(文政3年)に死没
  • 1817(文化14年)に出版された「諸家人名」では写楽斎が故人
  • 残念ながら、上記の史料による矛盾は現在も解決に至らず、東洲斎写楽に関しては謎が100%解決されていません。

    東洲斎写楽の活動期間が短かった理由は?

    浮世絵師・東洲斎写楽の活動期間はわずか10カ月ほどでしたが、その理由は役者たちからの不評にあったと言われています。

    堀田甚兵衛(ほったじんべえ)という人物が記した「江戸風俗惣まくり」には、以下のように書いてあります。

    「東洲斎写楽という絵師は、それまでの絵師とは異なる画風で、顔の特徴をよく捉えて描いたけれど、役者達には「艶色を破る」ということで嫌われてしまった」

    詳しく見ていきましょう。

    真に迫る”タブー”を行った東洲斎写楽

    東洲斎写楽は歌舞伎役者を中心に浮世絵を描いてきました。

    しかし、東洲斎写楽は真に迫った画風を追求したことにより、役者たちの大ブーイングを受け、歌舞伎ファンから不評を得てしまったという裏事情があったのです。

    歌舞伎役者を描く役者絵は、本来客席からはよく見えない役者の顔を、もっと近くで大きく見たいというファン心をくすぐっています。

    つまり、女形の役者であれば美人画やデフォルメ等、ファンが喜ぶ役者の美化やデフォルメが特徴的で、浮世絵師はファンが見たいものを描いています。

    一方の東洲斎写楽は、役者をありのままに描いてしまったことにより、デフォルメや美化を無視した絵柄になっていました。

    つまり、女形の役者であれば、男性の骨格までも忠実に再現したのです。

    勝川派等の浮世絵師が歌舞伎役者をひとりのキャラクターとして描いていたのならば、東洲斎写楽は歌舞伎役者をひとりの人間として描いていました。

    このように、東洲斎写楽は現実を突き詰めた結果、役者絵のタブーに触れてしまいます。

    最終的には画風も変化し、短い活動期間で突如浮世絵の世界から姿を消したのではないか、と現在では考えられています。

    まとめ

    今回は、東洲斎写楽の2つの謎について深堀りしました。
    東洲斎写楽の正体が斎藤十郎兵衛という説はほぼ確定的ですが、史料の矛盾からまだ真の解決には至っていません。

    また、東洲斎写楽の活動期間が短いのは、役者絵のタブーを破ったリアルを追求したことによる歌舞伎役者や歌舞伎ファンから不評に繋がり、後の迷走と引退に繋がったのではないかと考えられています。

    東洲斎写楽は謎に包まれた生涯と短期間の鮮烈な活躍により、200年以上たった現在も世界の浮世絵ファンの心を掴み、世界中で最も知られる肖像画家の1人になりました。

    東洲斎写楽に関する今後の研究結果次第では、今回紹介した彼の謎に関する内容もどんどん書き換わっていくかもしれません。

    そういった意味で、東洲斎写楽はこれからも注目したい浮世絵師です。

    (寄稿)あさひなペコ

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    高田哲哉日本の歴史研究家

    投稿者プロフィール

    高田哲哉と申します。
    20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
    日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
    資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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