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杉孫七郎(すぎ-まごしちろう)は、1835年2月13日、長州藩士・木五郎右衛門の次男として周防の吉敷郡御堀村(山口市)にて生まれた。
母は母は周布政之助の姉。
その後、長州藩士・杉考之進盛倫の養子となると、文学は佐々木源吾から、槍術は岡部右内に学んだ。
1854年、養父に従い江戸に赴いたが萩に戻ると長州藩校・明倫館で学んでいる。
なお、吉田松陰や杉文の家である「杉家」とは関係はない杉家であるが、杉孫七郎は明倫館にて吉田松陰にも師事して兵法を学んだようだ。
1856年には、相模の防衛にも加わったが、1857年に帰国すると、1858年2月、剣術修行のため九州~四国~中国を経て江戸に出ると、1860年2月、2月手廻組に入り藩主・毛利敬親の小姓を務めた。
7月には銃陣助教となり、1861年9月、藩命を受けて江戸に行くと、江戸幕府が送った遣欧使節(文久遣欧使節)の1人として加わって、12月に横浜港から出航。
竹内保徳・松平康英らに従って福沢諭吉らとヨーロッパ諸国を視察し、翌年12月に帰国した。
1863年2月は京と、その後、4月に岩国、5月には久留米に派遣され、他藩応接掛となって政務に参加し、9月には奥番頭格に昇進して直目付となった。
1863年12月には水戸、1864)年6月には筑、7月は小倉に赴いており、8月になると当役用談役となっている。
下関戦争で井上馨とともに和議に尽力し、内乱では高杉晋作を支持するが、保守派・椋梨藤太らとの軍事衝突には最後まで反対した。
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1866年7月に家督(156石)を継いで、四境戦争(長州征討)では長州軍の参謀として石州口での活躍がみられる。
その後、海軍用掛を兼ね、長州藩兵の討幕東上出兵においては、堅田大和の参謀として参加している。
明治維新後には山口藩副大参事に就任。
廃藩置県後の1871年(明治4年)には宮内大丞、秋田県令を歴任したあと、再び宮内大丞を務めた。
1874年(明治7年)、宮内少輔になったあと、1877年(明治10年)に宮内大輔、1878年(明治11年)に侍補を兼務し、後に皇太后宮大夫に転じた。
1887年(明治20年)に子爵に叙せられ、1897年(明治30年)には枢密顧問官となっている。
「たいした功績もないこの私が華族に列せられた。実に勿体ない話である。この栄誉はむしろ若くして散っていった、あの多くの仲間たちが賜るべきであろう。」と語っている。
なお、名は重華。字(あざな)は子華。号は松城、聴雨など。通称は、はじめ徳輔であった。
没年は、1920年(大正9年)5月3日。享年86。
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