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本庄宗秀(松平宗秀、まつだいら-むねひで)は、丹後宮津藩の4代藩主・松平宗允の3男として1809年9月13日に生まれた。
母は松平輝和の娘か?
生まれた時、父・松平宗允はすでに隠居して、家督を養子の松平宗発に譲っていた。
更に父は1816年に37歳の若さで亡くなったが、兄・松平資統が病弱であったため、次の世子に指名されている。
養父・松平宗発は1831年に幕府老中にまでなるも、1840年に59歳で死去する。
そのため、松平宗秀が第6代の宮津藩主に就任した。
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大老・井伊直弼の徳川幕府にて、安政の大獄を遂行し、北町奉行・石谷穆清、勘定奉行・池田頼方、大目付・久貝正典、目付・神保長興らと共に、尊王志士の捕縛に尽力。
その後、大坂城代となったあとに、京都所司代に任命された。
しかし、朝廷の大原重徳らが、安政の大獄に関わった本庄宗秀(松平宗秀)が京都所司代に就任するのを拒み、幕府側でも会津藩主・松平容保が反対したため、京都所司代に任命されたが赴任する事ができなかった。
そのため、代役として酒井忠績が着任している。
その代わりとして溜詰格に昇進し、譜代大名の中で最高格式となったが、のちに安政の大獄に対する追罰人事により、格式の権利は剥奪された。
その後、幕府の老中になると、阿部正外とともに幕府の軍勢4000を率いて上洛して、京都の攘夷派公家や浪士らの牽制。
徳川慶喜を江戸へ連れて行き、京都を徳川幕府の統制下に置こうとしたが失敗している。
1866年の第二次長州征伐では安芸広島に幕府軍を率いて出陣し、指揮を執った。
しかし、長州勢に対して相次いで敗北し、広島にて捕虜にしていた長州藩・宍戸たまき・小田村伊之助を独断で釈放し、少しでも幕府に有利な停戦交渉を試みた。
しかし、この独断が幕府に発覚し、老中を罷免されてしまい、家督を五男・松平宗武に譲り、隠居謹慎するようにと命じられてしまった。
鳥羽・伏見の戦いでは、新政府への恭順の為、藩兵を率いて戦った重臣2名を切腹させようとしたが、宮津藩は先の宍戸たまき・小田村伊之助の釈放の功績があったとして、長州藩の新政府への助命嘆願もあり、この2名は助けられている。
明治維新後、本庄宗秀(松平宗秀)は新政府に出仕すると、伊勢神宮の大宮司などを歴任した。
明治6年(1874年)12月20日に死去。享年65歳。
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