松平直諒とは~有能な大名で地元で善政を敷いた出雲広瀬藩主

城安寺



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松平直諒(まつだいら-なおあき/なおよし)は、出雲広瀬藩の第8代藩主・松平直寛の長男として、1817年(文化14年)10月5日に生まれた幕末の大名です。
幼名は大助で、母は日向延岡藩主・内藤政韶の娘です。

広瀬藩の松平家は松江藩の支藩で3万石であり、戦国時代に尼子氏の本拠だった月山富田城の城下町である広瀬地区に広瀬陣屋に置いていました。
江戸時代となって、1666年に松平家の松江藩初代藩主・松平直政(結城秀康の三男)の次男・松平近栄が分与されて立藩したのが始まりです。

松平直諒の正室は、尾張支流・松平義和の娘・宣姫です。
継室は青山忠良の娘・銑姫とあり、子としは大橋某室となった娘、伊予今治藩主・松平定法の正室になった娘がいます。


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官位は従五位下で、松平佐渡守直諒とも書きます。

なお、歴代の藩主はほとんど江戸藩邸にいたようですが、父が亡くなった1850年に家督を継ぐと、有能な松平直諒は広瀬に入って、善政を敷いたと言います。
特に、製糸業や製油業、和紙、鋳物、陶器、織物(広瀬絣)などの産業を奨励した他、俳諧・絵画・書道と言った文化も奨励などし、領民に慕われた名君であったとされます。

号に沾嶺、玉峯、浩斎があります。
文久元年(1861年)9月5日(異説として7月19日)に、松平直諒は広瀬にて死去しました。享年45。

嫡子がいなかったため、跡は弟・松平直巳が継いでいます。

広瀬・松平家の菩提寺は、月山富田城の菅谷口にある臨済宗の寺院「城安寺」で、山門(トップ写真)は松平直諒の寄進によるものです。

尼子十勇士の絵巻物も所有する城安寺の向かいに「お墓山」と呼ばれる丘があります。
この墓地となっている小高い丘のうえに、松平直諒の墓がありました。
城安寺の境内にある訳ではないので、ご注意を。

松平直諒の墓

駐車場ですが、城安寺の前にある駐車スペースにクルマを止められます。

松平直諒の墓がある場所は、当方のオリジナルGoogleマップにて、登り口を印させて頂いております。

この付近は、月山富田城だけでなく、山中鹿之助関連の史跡も多く、戦国時代の見どころがたくさんあります。
足立美術館も良いですよ。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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