まちなか周遊バスで観光すれば会津戦争がもっとわかる! 城下町の位置関係とは




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福島県郡山市から1時間30分、新潟県新潟市から1時間50分、高速バスで1時間30分から2時間程度、内陸の盆地に位置する福島県会津若松市。
幕末には会津戦争の舞台となり、飯盛山では白虎隊が自刃、鶴ヶ城では1ヶ月におよぶ籠城戦がおこなわれました。
明治になってから斗南藩に移るもの、北海道の開拓民になるもの、東京で新生活をはじめるもの……会津若松の人口は激減しましたが、現在では観光地としてにぎわいを取り戻しつつあります。
当時の激戦地だった飯盛山、籠城戦をおこなった鶴ヶ城も観光地として知られています。
会津若松の観光スポットを網羅しているのが「まちなか周遊バス」です。
会津若松駅、鶴ヶ城、飯盛山、七日町、東山温泉など、主要な観光地を「ハイカラさん」「あかべえ」が双方向から回っています。
まちなか周遊バスで観光すれば、城下町・会津の位置関係がみえてきます。
位置関係がみえてくれば、会津戦争がもっとわかるようになります。
そこで今回は、まちなか周遊バスのルートにある会津戦争ゆかりのスポットを取り上げ、その位置関係をくわしくみていきます。



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知っておきたい会津戦争とは?

戊辰戦争でも大規模な戦闘になった会津戦争。
籠城戦に持ち込むも、新政府軍の猛攻に敗戦しました。
まずは、会津戦争についておさらいします。

京都守護職として佐幕派の中心になった会津藩主・松平容保

江戸時代初期から江戸時代後期まで会津藩を治めていたのが会津松平家です。
初代藩主・保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたります。
幕政・藩政ともに活躍、徳川一門として松平姓を名乗りました。
以来、初代藩主の「徳川のために忠義を尽くす」という意識を持ち続けるのです。
風雲急を告げる幕末、第九代藩主・松平容保が京都守護職として上京します。
当時、西国の不逞浪士によって、京都の治安が悪化していました。
京都守護職は京都の治安維持のために新設された役職です。
幕末の京都で活躍した新選組も京都守護職の配下にありました。

戊辰戦争では最大規模の戦闘になった会津戦争

王政復古の大号令により、佐幕派が朝敵とみなされました。
京都守護職にあった会津藩も例外ではありません。
東国諸藩が奥羽越列藩同盟を結成、会津藩中心に新政府軍に抵抗しましたが、最新兵器での攻め込みに追い詰められていきます。
白河口、二本松と敗戦したのです。
母成峠の戦いでの大敗で松平容保は籠城戦を決意しました。
このとき、籠城戦に備えて城下町の一部を焼き払っています。



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時同じくして、母成峠の戦いから飯盛山を退却していた白虎隊の少年兵たちが、会津・鶴ヶ城が陥落したと誤認して自刃しました。
悲劇はこればかりではありません。
籠城戦の足手まといにならないよう、会津藩士の母・妻・娘などが命を絶ちました。
また、薙刀を得物に戦った女性たちもいましたが、その多くが命を失いました。

難攻不落の鶴ヶ城で1ヶ月の籠城戦に踏み切る

鶴ヶ城は難攻不落の城として知られていました。
この鶴ヶ城で籠城戦に踏み切ったのです。
城内に立てこもったのは5000人ともいわれています。
会津戦争では城内外に関わらず、激しい戦闘になったことが知られています。
城内から城外へ奇襲をかける部隊や、城外でゲリラ戦を展開する部隊もいました。
新政府軍の大砲は城内にまで達しており、城内で治療している負傷兵、後方支援に回る女性、そして避難している民間人まで犠牲となったのです。
会津戦争を指揮していた松平容保は、惨状を目の当たりにして降伏します。
すでに物資・食料ともに尽きかけていたそうです。
明治改元から二週間後、鶴ヶ城に「降参」の白旗がひるがえりました。

会津戦争ゆかりのスポットの位置関係をみる

会津戦争ゆかりのスポットの位置関係は、実際に現地に行ってみなければわかりません。
まちなか周遊バスで、スポットからスポットへ移動してみましょう。
パンフレットだけではわからない、意外な位置関係がみえてきます。



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鶴ヶ城

会津若松のシンボルともいえる鶴ヶ城。
江戸時代には難攻不落の名城として知られていました。
全方位、死角がありません。
また、全国的にも珍しい赤瓦が特徴です。
会津戦争での籠城戦で「陥落した」と誤認されがちですが、鶴ヶ城そのものは陥落していません。
天守閣が崩壊寸前の状態で降参しています。
鶴ヶ城が取り壊されたのは明治7年です。
明治政府から命じられたこと、地元住民が望んだことで取り壊されました。
会津戦争後、斗南移封となって無人状態になったのも理由だったといわれています。
鶴ヶ城が再建されたのは昭和40年のことです。
平成まで復元作業が続き、現在では当時をしのばせる赤瓦になりました。
ちなみに、平成2年におこなわれた大規模な復元にともない、JR会津若松駅の駅舎も現在の城郭風になっています。

鶴ヶ城とJR会津若松駅の位置関係

バスルートでは七日町経由で遠回りになりますが、現在の中心地であるJR会津若松駅から当時の中心地である鶴ヶ城までは、成人男性であれば徒歩30分、女性であっても徒歩45分程度の距離です。幕末当時、現在の駅前エリアは城下町の郊外にあたり、足軽衆が生活していたといいます。

飯盛山

白虎隊の少年兵士たちが自刃したことで知られている飯盛山は、JR会津若松駅の東に位置しています。
飯盛山のふもとにある白虎隊記念館には、戊辰戦争にゆかりある数々の展示物があり、白虎隊のみならず会津戦争についてもくわしく知ることができます。
頂上には白虎隊霊場があり、自刃した十九人の少年兵の墓前に手を合わせることができます。
また、白虎隊で生き延びた飯沼貞雄の墓もすぐ傍です。
白虎隊自刃の地からは、会津若松の街並みを一望できます。
白虎隊士たちはここから鶴ヶ城が燃え上がるのをみて自刃を決意したといわれています。
しかし実際のところ、籠城戦に備えて城下町に火を放っているだけで、鶴ヶ城は無傷の状態でした。

飯盛山と鶴ヶ城の位置関係

鶴ヶ城からみて飯盛山は北東にあたります。
飯盛山から鶴ヶ城を目視できるとおり、それほど距離はありません。
徒歩だと50分前後です。
白虎隊の少年兵たちは、鶴ヶ城から飯盛山まで、50分もかからなかったのではないでしょうか。



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七日町

七日町は「なぬかまち」と読みます。
藩政時代、毎月7日に市が開かれていたことに由来しているといいます。
当時は街道沿いということもあり、旅籠屋が立ち並んでいたようです。
現在では、藩政時代をしのばせる街並みとおしゃれなショップで観光客に人気です。
七日町の阿弥陀寺には、新選組三番組長、斎藤一が眠っています。
会津戦争を戦い抜いた新選組随一の剣客は後世を東京で過ごしていますが、この阿弥陀寺に埋葬されることを望みました。
会津戦争時、城内外付近で戦死した会津藩士(含めた佐幕派の兵士たち)は、阿弥陀寺と長命寺にのみ埋葬することが許されました。
この阿弥陀寺には200人以上の亡骸が埋葬されたといわれています。
後世を会津藩士として生きた斎藤一が阿弥陀寺に埋葬されることを望んだ理由が伺えるのではないでしょうか。

七日町と鶴ヶ城の位置関係

会津若松駅からは徒歩20分程度の位置にある七日町。
まちなか周遊バスで移動することになりますが、意外にも徒歩圏内という距離でもあります。
七日町駅から鶴ヶ城まで徒歩30~40分程度。
成人男性だったら30分弱、女性でも40分あれば移動できます。

東山温泉

旅行業界でも高評価の会津・東山温泉。
会津若松駅からバスで20分、会津の奥座敷ともいえる温泉地です。
実はこの東山温泉、新選組副長の土方歳三が湯治したことで知られています。
源泉を同じくする温泉宿が現在でも営業しています。
当時、宇都宮の戦いにおいて足首を負傷していた土方歳三は、打ち身、くじき、切傷などにも効果的だといわれていた東山温泉で療養生活を送ったのです。
その後、前線に復帰してから、仙台に向かうと主張する土方歳三と会津に残留するという斎藤一の意見が対立しました。
そのため、それぞれ別行動をとることになります。

東山温泉と鶴ヶ城の位置関係

東山温泉(おおよそ土方歳三が湯治したと思われる地点)からみて、鶴ヶ城は徒歩50分前後という距離にあります。
また、飯森山からみても徒歩での移動時間は50分程度とみられています。
東山温泉に向かうまでにあるのが天寧寺です。



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ここには新選組副長・近藤勇の墓があります。
京都守護職であった松平容保に頼んで、土方歳三が天寧寺の敷地内に設けました。
現在でも参拝者が絶えません。

まとめ

京都守護職・松平容保公のもと、徳川家への忠義を貫き、会津戦争を戦い抜いた会津若松には、現在でもその魂が息づいています。
会津戦争ゆかりの地を巡りながら、当時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
東山温泉で現代人か抱えるストレスを癒すのもおすすめ。
湯治をしていたという土方歳三が、現代は現代で大変なんだな……とどこかで苦笑いしているかもしれません。

(寄稿)いずみさわふじこ

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