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山本八重が登場する八重の桜でも知られる「母成峠」。
会津藩としては新政府軍は、恐らく「中山峠」を超えると、当時、予測していたようだが、新政府軍が進軍したコースは、母成峠であった。
母成峠は、険しい山の峠と言うよりは、比較的、なだらかな斜面にある峠であり、生えている木々も低い木が多く、我々が通常思い描く峠とはちょっと違う。
大河ドラマや八重の桜が、悪いと言う事ではないのですが、密偵・忍者を前線に送り、情報収集を行っていた、優秀な戦国大名と異なり、平和に過ごしてきた幕末の各藩は、そんな忍者など不要だったと言う事が災いしたのか、会津藩は、新政府軍の動きを事前に察知することができていなかったようである。
戦争は、特に「情報」は大変重要であるため、この情報収集能力において、会津藩は不足していた事も否めないだろう。
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何しろ、越後街道から母成峠に折れる、現在の磐梯熱海は、中山峠から僅か約10kmの距離である。
新政府軍のおとり部隊の小数が、中山峠も攻撃する動きを見せたとしても、ちょっと先に、会津藩が偵察部隊を送っていて、新政府軍の主力が母成峠へ向かった事をいち早く察知できれば、極端な話、中山峠に布陣させていた、会津藩本隊を強硬に前進させて、新政府軍本隊の背後を突く(母成峠で挟み撃ちする)ことが、できたかも知れない。
もちろん、結果論であるため、それらが困難だった、当時の事情があったかも知れないが、戦略的には会津藩の「情報収集能力」が低いと言う点が気になって仕方ない。
仮に、会津藩ではない他の藩が攻撃を受けたとしても、同様に、情報不足は否めなかったのだろうが、武士と言えば戦闘のプロ。
そんな武士も、この幕末の時代には、最新兵器ばかりに目が行き、戦術的な部分を忘れてしまっていたのだろうか?
その後、日本は結果的に、情報を軽視し、大量の兵を動員すると言う物量で、日清戦争・日露戦争を勝ったのである。
(参考文献) ウィキペディア、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局
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