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井伊直弼の正室(妻)である、井伊昌子(貞鏡院)は、丹波亀山藩主・松平信豪の次女として1834年に生まれた。
母は播磨姫路藩主・酒井忠実の娘・采。
初名は松平多喜、その後、貞、昌子と改名している。
1846年1月、ずっと部屋住みだった井伊直弼は、32歳で彦根藩主・井伊直亮の世子となった。
さっそく、井伊直弼に縁談の話が持ち上がり、当初は、徳川将軍・徳川家慶の養女・精姫(あきひめ、精宮韶子女王)を迎えると言う話も出た。
しかし、藩主・井伊直亮は徳川家との縁談には前向きではなく、丹波亀山藩との縁組を進めると、1846年10月13日、幕府老中に縁組の願書を提出。
このとき酒井昌子は12歳であったと言う。
1847年2月に、井伊家は相模湾の警護を命ぜられているが、このとき世の中で流行った落首に「掃部さん表きらいで裏がすき」というものがあると言う。
表(将軍家)との縁組を断り、裏が(浦賀)に行くことになったと言う意味との事。
1850年9月には、井伊直亮が死去し、井伊直弼が藩主となったが、婚約は成立したものの、将軍家に配慮してか実際の婚儀は遅れに遅れる。
ようやく婚礼となったのは1852年8月19日のことで、昌子は18歳、婚約してから6年後の事であった。
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なお、井伊直弼には、千田高品の養女(秋山正家の娘)である静江、西村本慶の娘・里和など側室もいる。
昌子が嫁いだ翌年、1853年には浦賀にペリー提督の黒船来航となり、幕末へと突き進む時代となり、1860年3月3日、井伊直弼は桜田門外の変で横死。
彦根藩は側室の子・井伊直憲が継いだが、1862年には、井伊直弼が生前に安政の大獄を行った事を咎められ、10万石に減封されている。
明治維新となると井伊家は国賊扱いされており、昌子がどのような生活をしていたのかは不明だ。
井伊昌子(貞鏡院、ていきょういん)は、明治18年(1885年)に51歳で死去。
墓所は井伊家の菩提寺である、東京都世田谷区の豪徳寺。
戒名は貞鏡院殿柳室智明大姉。
(参考) Wikipedia
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